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吉田松陰は嘉永4年3月5日に、
藩主の参勤に随行して江戸へ向かいました。
松陰にとって初の江戸行きですが、
未だ取り上げていませんでしたので、
今回はこの行程を追ってみます。
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辛亥3月、熊幡に従って東武に遊学する。
後にこれを記す。
※熊幡は藩主の乗り物の事。
一、3月5日、牢晴。
この日、熊幡は①萩城を発す。卯前半時。
余は井上某と同じく熊幡に先んじて出発す。
※井上壮太郎。井上勝の兄。
午時に②山口に至る。
山口県山口市 山口宿跡
山口県山口市 御茶屋跡/山口宰判勘場跡
昼飯を終えて亀山や鴻ノ峰に登った。
亀山は大内氏の古城で壕が今尚残る。
鴻ノ峰の頂きの岩戸社に参拝。
峰は大内氏が砦を置いた場所である。
日暮時に熊幡が追いついた。
一、3月6日、曇。
卯時、中谷松三郎(正亮)と幡に先んじて出発。
漫行して道を誤って③小郡に至り、
山口県山口市 小郡宿跡
街道の市を経て戻り、
鰐石、佐波川、佐野嶺を越え、
④三田尻に到着。
山口県防府市 三田尻湊
山口より小郡に至る道は2里28町、
小郡より三田尻に至る道は5里で、
午後に三田尻に達す。
到着する前に雨に遇い、
到着後は高井、沓屋、橋本、飯田を訪問。
※萩往還を進むべきところを、
山陰道で小郡に行ってしまった模様。
一、3月7日、牢晴。
卯時、駄を護る者と幡に先んじて出発。
※荷役人の事。
富海、戸田、夜市、福川、富田、徳山、
戸石の諸村を経て午後に⑤花岡に到着。
山口県防府市 富海宿跡
山口県周南市 福川宿跡
山口県周南市 徳山宿跡
山口県下松市 花岡宿跡
おおよそ7里。
道中は平坦で1~2の小坂があったが、
大した事は無かった。
福川には若山という山があり、
陶晴賢が居城としていた場所。
山址が連続しているので、
尾根と谷が連続して続いており、
大軍を擁していないと守り難い。
徳山の城下は厳粛で雑踏感は無い。
住居には武器と掛軸程度しかなく、
餅や酒なども置いていない。
その士風が体現されているようだ。
それに比べて隣の戸石や櫛浜等は、
皆騒がしい場所である。
徳山にまでこの悪風が入らないだろうか、
これを遮るものが無いのが残念。
戸石には船倉があるが、
地の理を活かしているので良い。
※徳山の士風を気に入ったようです。
一、3月8日、晴。
卯後、駄を護る者と幡に先んじて出発。
昼時に⑥高森に至る。道程は4里半と7町。
山口県岩国市 高森宿跡
その間は平坦で三尾や中山の坂があるが、
どちらも大した事は無い。
山口からここまで道中を見て歩き、
庶民の話を聞いてみれば、
去年の不作凶荒の際は、
藩は民の為の政を行っており、
この事で藩主を称える者が増えたようだ。
一、3月9日、晴。
笨車に乗って暁を破って出発。
※笨車は粗末な車の意。
安い道中駕籠の事でしょう。
松三郎を伴い辰の中刻に⑦関戸で食事。
山口県岩国市 関戸宿跡
その間には金明坂、御庄の渡しがあり、
玖珂市や柱野は戸口が密集していた。
山口県岩国市 玖珂宿跡
関戸坂を越えると小瀬川があり、
これが防芸の境界となっている。
赤馬関よりここまでは36里。
川を渡って芸州に入り、
久野坂を越えて⑧玖波驛に宿泊する。
広島県大竹市 長州の役戦跡 苦の坂
広島県大竹市 玖波宿跡
この日の行程は7里。
防芸の境界に至って誌を詠む。曰く。
奔流滔々扼巨川 疊山複嶺高衝天
美哉山河是國寶 何以守之親興賢
嗟々嵓邑何必死虢叔 克段于鄢莊不勗
苟有至誠足感神 異類可擾況同族
維昔祖宗制長防 乃選骨肉鎮一方
爾來賢明送輩出 萬世依然舊金湯
吾過此川越此嶺 長息却復思邊警
亂生於治古所稱 過憂祖訓屬晝餅
※この詩には中華史が含まれているので、
直訳しても意味が判らず断念しました。
3/5~3/9の行程。
つづく。
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