山口の発展は周防国守護職の大内弘世が、
居館を大内村から移した事に始まり、
急速に発展したとされています。
弘世は街並みを京都に似せて造り、
小京都や西の京と称されました。
やがて弘世は長門国も掌握し、
周防長門二国の守護となっており、
経済も発展して室町時代中期以降は、
日本一の経済基盤を有していたという。
その財力を頼って文化人や公家が、
戦乱で荒廃した京都より来訪し、
大内文化という独自文化が隆盛しています。
陶晴賢の謀反により大内氏が滅びると、
山口の隆盛は終焉を迎え、
毛利家の台頭により政治の中心は、
その拠点となる広島に移行。
関ヶ原の戦い後の毛利家減封の際も、
藩庁は萩に置かれていますが、
萩と三田尻を結ぶ萩往還や、
肥中湊への肥中街道が開かれて、
これらが元々通っていた山陰道と結ばれ、
交通の要所として発展しました。
山口市街周辺。
緑の線が山陰街道で青い線が萩往還。
紫の線は肥中街道で、
青でぼかした辺りが山口宿跡。
両街道が交わる札の辻より散策。
「札の辻」。
高札場が建てられていた場所。
ここから南西の筋へ進みます。
「山口宿跡」。
街道筋は中市商店街から西門前商店街まで、
長いアーケードとなっています。
訪問時は年末で人通りも多く賑やか。
宿場時代の面影は皆無ではありますが、
名称から老舗と思われる店も多く、
それを想像しながら歩くのも楽しい。
「山田屋本陣跡」。
山口井筒屋前のテナントビルYAMADA118。
本陣を務めた山田家の屋敷のあった場所で、
建物は取り壊され遺構はありませんが、
名称は受け継がれているようです。
118は番地から取られた模様。
「安倍橋」。
中市、米屋町、道場門前と進み、
一の坂川へ架かる安部橋に至ります。
橋名の由来は東詰にあった安部家から。
ここは肥中街道の起点だったようで、
肥中道は山陰道沿いに湯田まで進み、
そこから吉敷方向に曲がりました。
橋の東詰から南へ進む。
「安倍本陣之跡」。
脇本陣を務めた安部家の屋敷跡碑。
藩主の参勤交代に使用された他、
慶応3年9月に小松帯刀や西郷隆盛、
大久保一蔵、大山格之介らが来訪し、
この安部家に宿泊しています。
橋の北側にあるコープこことの裏手へ。
「枕流亭址」。
安部家の離れ枕流亭のあった場所。
木戸寛治(桂小五郎)や広沢兵助(真臣)らは、
この枕流亭2階で小松らと会見しました。
ここには碑と石灯籠があるだけですが、
枕流亭は香山公園に移築されており、
内部にも入れるようにもなっています。
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