三田尻は天然の良港であった為、
周防、長門の二国に減封された毛利家は、
毛利水軍を再編して御船手組とし、
下松を経て三田尻に移住させました。
これによって三田尻は長州藩の軍港となり、
御船倉や御船手組の住居などが整備され、
萩から三田尻を結ぶ萩往還も造られます。
後に2代藩主毛利綱広が御茶屋を造った他、
豪商五十君家等の尽力もあって、
三田尻は大いに栄えたという。
「行程記 登り一(一部)」。
寺社組郡方地理図師有馬喜惣太らによる、
萩往還、山陽道、東海道、中山道の絵図。
全23帖で裏表に往路、復路が記載され、
往復両用に使用できた便利なものでした。
これはその1帖目の一部。
防府市三田尻周辺。緑の線が萩往還。
御茶屋及び御船倉が終点となっています。
「三田尻御舟倉跡」。
上記したように長州藩は水軍を再編し、
御船手組として下松に移しますが、
良港三田尻に移動して御船倉を設置します。
戦のなくなった江戸時代において、
御船手組の主な任務は参勤交代となり、
三田尻から大坂まで藩主一行を運びました。
この御船倉は藩主の御座船や軍船を格納し、
修理や整備を行う施設で、
かつては海に面していましたが、
埋立が進んでその一部が残されています。
「三田尻御茶屋(英雲荘)」。
出航を待つ藩主の宿泊や休憩の他、
領内巡視の際にも使用されたという。
後に藩主は参勤には陸路をとる事となり、
使用は少なくなりましたが、
7代藩主毛利重就が隠居後に住処とし、
三田尻御殿とも呼ばれました。
「三田尻本陣五十君家跡」。
酒造業を営んだ豪商五十君家の屋敷で、
元々は越後の出身でしたが、
桃山時代頃に三田尻に移住したようで、
酒造を生業にしていました。
この五十君家の尽力により三田尻は発展し、
これが評価されて本陣に指定されています。
「三田尻湊」。
三田尻は製塩が盛んであったようで、
製塩業者は201軒もあったとされます。
長州三白のひとつとされる塩の半数が、
三田尻で生産されたようで、
軍港であると共に商取引にも活用され、
これらは北前船によって出荷されました。
近代以降は製塩の廃業と共に工場群が進出。
工業港として発展して現在に至りますが、
写真中央のように石垣岸壁も残っています。
■赤間関街道/萩往還の宿場町
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前回訪問時の記事。
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萩往還一の難所。
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萩往還及び西国街道の宿場町。