益田は豪族益田氏の本拠として発展し、
江戸時代はその大半が浜田藩領でした。
益田氏は石見守護藤原国兼を祖とし、
はじめ浜田御神本を拠点とした為、
御神本氏を称していましたが、
4代兼高が益田に拠点を移し、
以後は益田氏を名乗り、
石見国西部に領地を広げます。
後に守護大名大内氏に従属していましたが、
これを滅ぼした毛利元就に仕える事となり、
19代益田藤兼は尼子家や大友家と戦い、
毛利家が豊臣秀吉に従属した後は、
20代益田元祥が四国攻めや九州征伐、
小田原征伐、朝鮮出兵等に参陣。
また元祥に行政手腕の才があった為に、
政治においても重きを成しました。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北し、
毛利家は防長二国に大減封となり、
元祥の領地であった石見国は没収され、
益田家は須佐に移ります。
以後の益田は浜田藩領となりました。
益田市東町周辺。緑の線が街道筋。
青でぼかした辺りが益田宿跡。
南は扇原関門を経て津和野に至り、
北は三隅を経て浜田に至ります。
「益田川」。
春日山北嶺より市内を流れる二級河川。
浜田藩、福山藩ら幕府軍と長州軍は、
この川を対峙して戦闘を行い、
長州軍は敵前渡河に苦戦しています。
※背後より清末育英隊が回り込んで攻撃し、
その隙に長州軍は渡河。
乱戦となった後に幕軍は退却しました。
「益田宿跡」。
宿場町は益田川の北側。
萬福寺の門前町でもあったようです。
「萬福寺」。
浜田藩の本営となった時宗の寺院。
益田家の菩提寺でもだったようで、
墓地には8代当主益田兼見の墓もあり、
雪舟庭園があることも知られます。
浜田藩、福山藩は町屋に放火し、
益田の町は大きな被害を受けました。
これに対して長州藩は消火作業を行い、
復興の支援も行っています。
長州藩は民衆側に立つことにより、
自らの正当性をアピール。
これにより民衆は長州藩を支持するに至り、
占領政策もスムーズに行えたという。
長州藩の中でも元は自領の意識があり、
自領とする予定もあった思われます。
これは後の占領政策からも伺えますね。
■山陰街道の宿場町
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長州藩軍が軍勢を集結させた神社。
・島根県益田市 剣豪永井金三郎の墓
益田戦争で戦死した剣豪永井金三郎の墓。
・島根県益田市 万福寺・医光寺
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