島根県益田市 萬福寺/剣豪永井金三郎の墓

永井金三郎浜田藩の剣豪として知られ、
長州藩にも出張していたとされますが、
残念なことに調べても流派が判りません。
永井は益田戦争で戦死しており、
墓所は萬福寺の墓地にあります。


永井金三郎碑」。
石州戦争の[益田の戦い]は、
津和野藩領から攻めてきた長州勢に、
浜田藩・福山藩を主力とする幕府勢が、
萬福寺、勝達寺医光寺に陣を構え、
迎え撃った戦いでした。

扇原関門(記事はこちら)を突破した長州勢は、
川幅100m程の益田川に阻まれます。
これを清末藩育英隊が背後の秋葉山を攻略し、
同時に敵前渡河を決行して挟み撃ちにします。

永井は腰にぶら下げていた瓢箪を割り、
中の酒を一気に飲み干して、
今日を晴れの討死と覚悟しました。
浜田藩の大将山本半弥と共に突撃を開始し、
長州勢は怯んで逃げ出しますが、
士分は踏みとどまって永井に討たれます。

振武隊隊長石川厚狭介が永井に立ち向かい、
数度斬り合いが行われますが、
永井は腹部に流れ弾を受けて負傷。
石川は倒れる永井を見て一礼。
駆け去ったと伝えられます。

長州勢の銃撃により幕府勢は退却を開始し、
幕府軍の目付三枝刑部が狙撃されて討死。
山本半弥は萬福寺の本堂で自刃しました。
永井は辰ノ口の小屋に隠れていたところ、
若い長州兵に見つかって討たれたとされます。

石州口を担当した幕府軍の中でも、
浜田藩兵は他と比べて勇猛であったという。
他所より派遣された客軍である他藩兵と比べ、
自領の浜田藩にとっては死活問題であり、
益田が落とされれば浜田は裸同然。
その後の鶴田への逃避行を考えると、
※記事はこちら
命を駆けて戦った彼ら浜田藩兵は、
益田で撃退しようと奮闘したのでしょう。

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