島根県益田市 剣豪永井金三郎の墓

永井金三郎浜田藩の剣豪として知られ、
長州藩にも出張していたとされますが、
残念なことに調べても流派が判りません。
永井は益田戦争で戦死しており、
墓所は萬福寺の墓地にあります。
萬福寺墓地には旧益田領主益田兼見の墓もあり、
こちらの墓の方が有名なようで、
説明板も建てられています。


益田兼見の墓」。
益田兼見は益田家11代当主で、
知勇兼備の武将であったという。
南北朝の争乱足利尊氏方の上野頼兼を助け、
北朝勢として石見の各地を転戦しました。
尊氏の子足利直冬が南朝に帰順すると、
兼見も南朝に転じていますが、
直冬の死後に大内弘世が北朝方に下ると、
弘世に従って北朝方として戦っています。
大きな五輪塔が兼見のもので、
小さい方は兼見の父益田兼方の墓とのこと。

この益田兼見の墓の前方に永井の墓があります。

永井金三郎碑」。
石州戦争の「益田の戦い」は、
津和野藩領から攻めてきた長州勢に、
浜田藩・福山藩を主力とする幕府勢が、
萬福寺、勝達寺医光寺に陣を構え、
迎え撃った戦いでした。

扇原関門(記事はこちら)を突破した長州勢は、
川幅100m程の益田川に阻まれます。
これを清末藩育英隊が背後の秋葉山を攻略し、
同時に敵前渡河を決行して挟み撃ちにします。

永井は腰にぶら下げていた瓢箪を真っ二つにし、
中の酒を一気に飲み干して、
今日を晴れの討死と覚悟しました。
浜田藩の大将山本半弥と共に突撃を開始し、
百姓兵が主力の長州勢は怯んで逃げ出しますが、
士分は踏みとどまって永井に挑み討たれます。

振武隊隊長石川厚狭介が永井に立ち向かい、
数度斬り合いが行われますが、
永井は腹部に流れ弾を受けて負傷。
石川は倒れる永井を見て一礼。
駆け去ったと伝えられます。

長州勢の銃撃によって幕府勢は退却を開始し、
幕府軍の目付三枝刑部が狙撃されて討死。
山本半弥は萬福寺の本堂で自刃しました。
永井は辰ノ口の小屋に隠れていたところ、
若い長州兵に見つかって討たれたとされます。

石州口を担当した幕府軍の中でも、
浜田藩兵は他と比べて勇猛であったという。
他所より派遣された客軍である他藩兵と比べ、
自領の浜田藩にとっては死活問題であり、
益田が落とされれば浜田は裸同然。
その後の鶴田への逃避行を考えると、
(記事はこちら
命を駆けて戦った彼ら浜田藩兵は、
益田で長州を撃退しようと奮闘したのでしょう。

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