石州戦争での軍夫の逃亡

幕長戦争石州口の戦い(石州戦争)は、
大村益次郎が直接指揮を執り、
長州軍を勝利に導いたとされています。

その通りではあるのですが、
それだけが勝利の要因ではなく、
兵装の違い士気の違い戦術の違い等、
色々な要素が重なった結果の勝利でした。
その勝利の要因のひとつとして、
石見の民衆の動向が挙げられており、
浜田藩石見の天領の民衆が、
領主の所属する征長軍に味方せず、
敵方である長州藩に味方した模様。

石見国に限らないのですが、
当時の物価は非常に高騰しており、
物価が十年前の5倍となって民衆を圧迫。
その原因は幕府による外国貿易という認識が、
村医師等の知識人から伝えられており、
幕府に対抗する長州藩支持が広まりました。

浜田藩は領主が何度も代わっており、
民衆は領主を搾取する対象としか認識せず、
いにしえの領主毛利家に親近感を持っており、
しかも攻めてくる長州軍の中には、
旧領主石見益田家もいます。
※一門家老須佐益田家(石見益田家)は、
 かつて石見の益田周辺を領しています。

浜田藩は軍夫動員を行っていますが、
領民達はこれに抵抗。
鍬や竹槍を持って動員に反対します。
これには浜田藩も手を焼いたようで、
民衆をなだめすかし、
あるいは脅してやっと揃えたようでした。

石見口には親藩の松江藩、準親藩の鳥取藩
譜代の福山藩、御三家の和歌山藩が出陣。
しかし松江、鳥取両藩は積極的ではなく
残る三藩が戦闘に参加しています。
各藩h国許より軍夫を連れて来ますが、
軍夫の逃亡が相次いで深刻な状況となり、
厳罰に処す等の対策をしていますが、
それでもなかなか逃亡は収まらない。
そこで現地で軍夫動員を依頼するわけですが、
浜田藩自体が不足している状態なので、
征長軍は慢性的な軍夫不足となります。

戦闘開始後は軍夫の逃亡に拍車がかかり、
退却も容易ではなく、大砲、兵糧を置き去り。
軍夫を鎖で大砲に縛り付けていたとか。
※俗説です。
軍夫の逃亡は石州口の征長軍に限らず、
芸州口でも多く発生しており、
浜田藩が芸州へ援軍を求めた際も、
援軍の軍夫が逃亡してしまい、
浜田城自焼まで間に合っていません。

このように民衆が反抗的であったことも、
長州圧勝の要因のひとつだといえるでしょう。

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 石見戦争序盤の激戦地。

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