角牟礼城は鎌倉期の弘安年間(1278-1288)に、
玖珠郡衆の森朝通により築城された城。
玖珠郡衆は豊後守護大友家の支配下で、
角牟礼城は要衝の城として補強されつつ、
堅固な山城となっています。
天正14年(1586)の島津家の豊後侵攻でも、
次々と城が落とされる中で玖珠郡衆が籠城。
島津勢の猛攻にも耐えて落城しませんでした。
玖珠郡衆は大友家の没落後に所領を失い、
離散や帰農で姿を消しますが、
豊臣秀吉により玖珠郡が毛利高政に与えられ、
角牟礼城の整備がされたようです。
「三ノ丸跡」。
角牟礼城へは三ノ丸跡まで車で行けます。
鎌倉期築城の古い城と思っていたので、
近世城郭らしい石垣に少し驚きました。
毛利高政による整備の際に、
角牟礼城は近世山城に改修された模様。
少し行くと[野面積み]の石垣が現れます。
「二ノ丸南虎口跡」。
書いてあるものにより大手口とか、
伝搦手口とかバラバラなのですが、
南側が大手なんじゃないかなと思います。
長く東側に延びている石垣。
これも立派です。
二ノ丸に登った東側には、
細長く狭い曲輪がいくつかあり、
土蔵跡とされる敷石も残っていました。
[二ノ丸曲輪群]と称されている模様。
「二ノ丸西曲輪跡」。
二ノ丸で一際大きな曲輪の跡。
ここにも建物の敷石が残っています。
「二ノ丸西虎口跡」。
二ノ丸と本丸の間は尾根になっており、
その北側を除くと虎口跡の石垣が。
こちらが搦手口っぽいです。
本丸へ上る道は直線となってますが、
たぶん後から後から造られた道。
その左右には小さな曲輪が、
幾重にも重なっていました。
これは[本丸曲輪群]と称されています。
「本丸跡」。
結構広い本丸の曲輪跡。
石垣か何かの修復工事中らしく、
北側はロープが張られていました。
毛利高政は関ヶ原の戦いの後、
海部郡佐伯2万石に転封となっており、
玖珠郡には来島長親が2万石で入封。
来島家は城主格と認められず、
山麓に森陣屋を築いてこれを藩庁とし、
角牟礼城は廃城となります。
但し来島家入封後も改修の形跡もあり、
来島家が密かに整備をしていたともいう。
これは森陣屋の後方の末広神社境内が、
密かに城構えとなっていることからも、
可能性は大いにあると思われます。
続日本の100名城。
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