大分県大分市 府内城跡

府内は文字通り豊後国国府があった場所で、
かつては大友氏の本拠地でしたが、
大友吉統豊臣秀吉に改易された後、
府内は福原長堯に与えられています。

秀吉の死後に石田三成が失脚すると、
光成派の長堯は府内を没収されており、
早川長政が府内に入封していますが、
早川は関が原の戦いで西軍に属して改易。
代わって竹中重利が入封しました。
重利は府内城を大改修して現在の形にしますが、
次代竹中重義長崎奉行時代の不で改易。
重義は妖刀村正を多数所持していたという。
(記事はこちら)。

次に日根野吉明が入封しますが無着断絶。
府内は臼杵藩預かりを経て、
松平忠昭高松藩から転封し、
以後は大給松平家明治維新まで続きました。

府内城は大分城址公園として整備されています。

府内城」。
空襲により櫓の大部分が焼失しましたが、
戦後に大手門や土塀、二重櫓などが復元。
城の内側には大分文化会館がありましたが、
2013年に閉館して現在は更地です。


多聞櫓門」。
一般的に大手門と呼ばれていますが、
正式名称は多聞櫓門


宗門櫓」。
府内城には現存する櫓は2つ。
そのうちのひとつがこの宗門櫓
城の外から見ると平櫓に見えるのですが、
城内からは二重に見えるという構造で、
櫓台が半分地階になっています。 


天守台」。
江戸中期に天守は火災で焼失しており、
以降は再建されていません。
付属櫓付きの四重天守だったという。


人柱の祠」。
天守台の下にひっそりと祠があります。
府内城の築城の際に人柱が募集され、
遺族は一生安楽に暮らせるよう保障する
と触れが出されました。
これに孝行娘のお宮が人柱になったという。
また工事遅延の責任で普請奉行が自刃し、
奉行の娘であるお宮が人柱に志願したともいう。
どちらもお宮という女性が出てきますので、
人柱となったのはお宮という娘なのでしょう。


人質櫓」。
現存するもうひとつの櫓が人質櫓
なんとも物騒な名前の櫓ですが、
この名前の櫓は他の城にもあります。
文字通り人質を収容する為の櫓なわけですが、
実際に人質が収容されたのかはわかりません。
福山城津和野城にも人質櫓跡は存在しますが、
現存するのは府内城のみ。


廊下橋」。
茶の湯月見などが行われた山里丸と、
西の丸を結ぶ渡り廊下で、
大手門の廊下橋の意匠を忠実に再現したもの。

幕末の藩主松平近説は桑名藩主松平定永の子で、
老中首座板倉勝静とは兄弟でした。
若年寄となって幕政に関与しており、
府内藩は第二次長州征伐にも出兵しています。
近説江戸で幕政に従事していましたが、
国元では勤皇派増沢近篤が藩政を掌握し、
府内藩の藩論は勤皇でまとまっていました。
その後の鳥羽伏見の戦いの後、
近説は若年寄を辞任しており、
姓を大給に改めて恭順の姿勢を示しますが、
幕政への参加を問われ謹慎を言い渡されました。

【府内藩】
藩庁:府内城
藩主家:親清流大給松平家
分類:2万2000石、譜代大名

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