府内は文字通り豊後国の国府があった場所で、
かつては大友氏の本拠地でしたが、
大友吉統が豊臣秀吉に改易された後、
府内は福原長堯に与えられています。
秀吉の死後に石田三成が失脚すると、
光成派の長堯は府内を没収されており、
早川長政が府内に入封していますが、
早川は関が原の戦いで西軍に属して改易。
代わって竹中重利が入封しました。
重利は府内城を大改修して現在の形にしますが、
次代竹中重義は長崎奉行時代の不で改易。
重義は妖刀村正を多数所持していたという。
※記事はこちら。
次に日根野吉明が入封しますが無着断絶。
府内は臼杵藩預かりを経て、
松平忠昭が高松藩から転封し、
以後は大給松平家が明治維新まで続きました。
府内城は大分城址公園として整備されています。
「府内城」。
空襲により櫓の大部分が焼失しましたが、
戦後に大手門や土塀、二重櫓などが復元。
城の内側には大分文化会館がありましたが、
2015年に閉館して現在は更地です。
「多聞櫓門」。
一般的に大手門と呼ばれていますが、
正式名称は多聞櫓門。
「宗門櫓」。
府内城には現存する櫓は2つ。
そのうちのひとつがこの宗門櫓。
城の外から見ると平櫓に見えるのですが、
城内からは二重に見えるという構造で、
櫓台が半分地階になっています。
「天守台」。
江戸中期に天守は火災で焼失しており、
以降は再建されていません。
付属櫓付きの四重天守だったという。
「人柱の祠」。
天守台の下にひっそりと祠があります。
府内城の築城の際に人柱が募集され、
「遺族は一生安楽に暮らせるよう保障する」
と触れが出されました。
これに孝行娘のお宮が人柱になったという。
また工事遅延の責任で普請奉行が自刃し、
奉行の娘であるお宮が人柱に志願したともいう。
どちらもお宮という女性が出てきますので、
人柱となったのはお宮という娘なのでしょう。
「人質櫓」。
現存するもうひとつの櫓が人質櫓。
なんとも物騒な名前の櫓ですが、
この名前の櫓は他の城にもあります。
文字通り人質を収容する為の櫓なわけですが、
実際に人質が収容されたのかはわかりません。
福山城、津和野城にも人質櫓跡は存在しますが、
現存するのは府内城のみ。
「廊下橋」。
茶の湯や能、月見などが行われた山里丸と、
西の丸を結ぶ渡り廊下で、
大手門の廊下橋の意匠を忠実に再現したもの。
幕末の藩主松平近説は桑名藩主松平定永の子で、
老中首座板倉勝静とは兄弟でした。
若年寄となって幕政に関与しており、
府内藩は第二次長州征伐にも出兵しています。
近説は江戸で幕政に従事していましたが、
国元では勤皇派増沢近篤が藩政を掌握し、
府内藩の藩論は勤皇でまとまっていました。
その後の鳥羽伏見の戦いの後、
近説は若年寄を辞任しており、
姓を大給に改めて恭順の姿勢を示しますが、
幕政への参加を問われ謹慎を言い渡されました。
【府内藩】
藩庁:府内城
藩主家:親清流大給松平家
分類:2万2000石、譜代大名
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