大分県大分市 大手通り

府内城大手通りは「遊歩公園通り」と称し、
大分ゆかりの碑が多く建てられており、
今回はこの「遊歩公園通り」の碑を巡ります。

南側より散策。

育児院と牛乳の記念碑」。
府内に育児院が建てられた事と、
育児院で牛乳が飲まれた事を記念する碑。
弘治3年(1557)ポルトガル人医師アルメイダは、
日本で最初の西洋式病院を府内に設立。
当時は貧困から赤子を殺していたとされ、
これに心を痛めたアルメイダは、
育児院を建設して殺されそうな赤子を集め、
乳母牝牛を用意して育てたとのこと。
これは福祉の先駆けであったとされます。


西洋劇発祥記念碑」。
永禄3年(1560)のクリスマスにおいて、
府内の教会で信者による劇が演じられました。
演目は「アダムの堕落と贖罪の希望」、
ソロモンの裁判を願った二人の婦人」等で、
これらが日本最初の西洋劇とされます。


瀧 廉太郎君像」。
[荒城の月] 等の作曲者瀧廉太郎は、
ドイツ留学で結核に感染。
帰国後に稲荷町で療養していましたが、
明治36年(1903)に23歳で死去しました。
この像は彫刻家朝倉文夫によるもので、
瀧と同じ竹田高等小学校を卒業しており、
3年後輩にあたるとのこと。


瀧 廉太郎 終焉之地」。
銅像の北側にある滝廉太郎の終焉の地で、
瀧が晩年を過ごした自宅があった場所。
瀧が作曲した曲は34曲確認されていますが、
結核で死亡した為に手持ちの楽譜は焼却され、
全く残っていないようです。
これには未発表のものもあったともいう。


西洋医術発祥記念像」。
前記したように弘治3年(1557)に、
府内に日本最初の西洋式病院が建立。
ポルトガル人年医師アルメイダによって、
最初の洋式外科手術が行われたようです。
遠く京都関東からも患者が来ていたとされ、
永禄5年(1562)には100人が入院。
最初の医学校も併設されていたようで、
日本人が西洋医学を学んでいたとのこと。


伊東ドン・マンシヨ像」。
天正7年(1579)に宣教師ヴァリニャーノは、
大友宗麟有馬晴信大村純忠らに対し、
少年使節団ローマ派遣を提案。
これに宗麟は伊東マンシヨを派遣し、
晴信や純忠も千々石ミゲル中浦ジュリアン
原マルティノを派遣しています。
これが有名な天正遣欧少年使節で、
天正10年(1582)に長崎からローマへ出発。
2年半の航海を経てローマに辿り着き、
ローマ教皇グレゴリウス13世に拝謁しました。
その後は欧州各地を巡っており、
音楽印刷技術等を学んだ後に帰国。
帰国後は豊臣秀吉に仕官を薦められますが、
これを固辞して司祭への道を進み、
慶長13年(1608)に司祭に叙階されました。
その後は迫害されつつ小倉中津と移り、
慶長17年(1612)に長崎で病死しています。


府内城大手門」。
「遊歩公園通り」はこれにて終了。
紹介したものの他にも銅像や碑がありますが、
近代のものでしたので割愛します。

「遊歩公園通り」ではありませんが、
府内城址公園前交差点の南東、南西にも、
銅像が建立されています。

西洋音楽発祥記念碑」。
記念碑となっていますが銅像です。
弘治3年(1557)に府内教会で聖歌隊が結成され、
復活祭讃美歌が合唱されました。
少年達は神父からビオラを学んでおり、
永禄5年(1562)に大友宗麟の前で演奏し、
宗麟に大いに称讃を受けたとされています。


聖フランシスコ・ザビエル像」。
キリスト教を最初に伝えたザビエルは、
天文18年(1549)に来日したとされます。
鹿児島平戸山口で布教したザビエルは、
天文20年(1551)に宗麟の招きで大分に到着。
宗麟の庇護を受けて布教を行い、
教会、孤児院、病院、学校が建てられて、
2年間布教活動を行いました。
その後にインドを経て中華を目指しますが、
その直前の上川島にて病死しています。

なかなか盛沢山な遊歩公園でしたが、
途中に数ヶ所の交差点がある為、
島と島の行き来が意外と困難。
もう少し考えて欲しいなと思いました。

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