大分市常行に毛利空桑の墓所があります。
毛利家は代々鶴崎で医者をしていた家系で、
父の毛利太玄は苦学の末に医学を極め、
熊本藩の藩医を務めた他にも、
杵築藩、岡藩、日出藩にも招かれた名医。
空桑はその太玄の次男でした。
「毛利家墓所」。
住宅地の区画中央にある毛利家墓所。
細い路地を進むとたどり着きます。
周辺に駐車場はありませんので、
河川敷の駐車場に駐車して歩いて訪問。
「日本國儒者毛利到墓(右)」、
「久多良木於佐義君墓(左)」。
毛利空桑の墓とその夫人おさぎの墓。
日出の帆足万里に儒学を学び、
後に熊本藩校時習館に入学。
福岡では亀井昭陽にも学んでいます。
28歳で鶴崎に戻ると自宅の天勝堂、
私塾の知来館を建設。
後に門弟は1,000人を超えており、
名声は遠くまで轟きました。
吉田松陰や斉藤監物も知来館を訪れ、
空桑と時世について交わしています。
その後も教育に終生力を注ぎ、
明治17年に死去しました。
■関連記事■
・大分県大分市 毛利空桑旧宅
毛利空桑の旧宅及び私塾跡。
・大分県速見郡 松屋寺/帆足萬里墓所
空桑の師帆足萬里の墓所。