宮崎県宮崎市 伊東祐堯公墓

宮崎市清武にある伊東家墓所
[伊東家祐堯公墓]となってはいますが、
伊東家11代当主伊東祐堯の他にも、
12代伊東祐国や13代伊東尹祐の墓、
更に15代伊東祐吉とされる墓もあります。


伊東家墓所」。
すぐ南側には清武城跡があり、
墓所は清武城の一部かもしれません。
武威を誇った伊東祐堯は飫肥城攻略の為、
清武城に入城していましたが、
文明17年(1485)に77歳で死去しています。


祐堯墓(右)」、「祐国墓(左)」、
祐国 祐堯 供養塔(中央)」。
11代当主伊東祐堯の墓と、
12第当主伊東祐国の墓。
及び祐堯と祐国の供養塔。
11代祐堯は10代伊東祐立の子とも、
祐立の子伊東祐武の子ともされており、
祐立の死去に伴い家督を相続しています。
持前の武威で四方の勢力を次々と破り、
徐々に勢力を拡大させており、
日向に協力な地盤を築いた名将でした。
12代祐国は父祐堯に従って各地で戦い、
父と共に島津方の飫肥城を攻撃しますが、
清武城で父が死去した為に家督を相続。
飫肥城を包囲して戦いますが、
その戦いの最中に戦死してしまいます。


尹祐墓」。
13代当主伊東尹祐の墓。
尹祐は12代祐国の嫡男だったようで、
父の戦死に伴い幼少ながら家督を相続。
成人後に父の仇を討つべく島津家と争い、
後に豊後大友家の仲介で和睦しています。
継嗣問題で家中は一時乱れますが、
着実に版図を広げて日向南部を掌握。
しかし大永3年(1523)の北郷家との戦いで、
陣中で病死してしまいました。

尹祐の跡を継いだ伊東祐充は幼少で、
外祖父福永祐炳が実権を掌握しています。
この事で家中が不安定となった隙に、
北郷家に攻め込まれて伊東家は大敗。
祐充も若くして病死しました。


祐吉墓(?)」。
15代当主伊東祐吉のものとされる墓。
祐充死後に一族の伊東祐武が反乱を起こし、
福永一族は追い込まれて自害。
この反乱は家中を二分するに至り、
最終的に祐武は鎮圧されています。
祐充には弟伊東義祐と祐吉がいましたが、
重臣荒武三省が祐吉を強く擁立した為、
祐吉が家督を相続しました。
しかし祐吉は20歳にして病死してしまい、
義祐が16代当主となっています。

他に家老宮田安芸守宮田藤五郎の墓、
長倉祐正垂水祐元の一族の供養塔。
不明な2つの五輪塔がありました。

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