宮崎県西都市 大安寺/伊東家墓所

大安寺の墓地に伊東家の墓所があります。
かつて大安寺を含む周辺の地には、
伊東家やその家臣の墓が建てられましたが、
永い年月の間にそれらの墓は粗末に扱われ、
野放し状態となっていたという。
その後の昭和54年に墓地改修が行われると、
それらの墓を墓地の東側に移接。
伊東墓地として整備されています。


伊東墓地」。
伊東家及びその家臣の墓が集められた墓所。
他寺から移された墓もありますが、
殆どは大安寺の墓地にあったものという。
家臣の墓は福永伊豆守長倉洞雲
木崎原合戦の戦死者の墓もあります。

標柱は都於郡城主の肩書で数えられ、
伊東祐光を初代としています。

第五代城主総昌公伊東祐堯之墓(左)」、
伊東祐堯公側室野村氏之墓(右)」。
5代城主伊東祐堯の墓と、
祐堯の側室野村氏の墓。
4代城主伊東祐立の子や、
祐立の子伊東祐武の子等、
その出自には諸説あるようですが、
日向伊東家の家督を継いでいます。
※祐立の死後に継嗣である伊東祐家を殺し、
 家督簒奪を目論んだ弟の伊東祐郡を、
 家臣らが不義であると認めなかった為、
 祐郡は追放されて祐堯が家督を相続。

家督を継いだ祐堯は日向国内に武威を示し、
従わない各地の城主を破っており、
北は門川、南は紫波洲崎までを支配します。
島津家とは始め良好な関係でしたが、
後に敵対して島津家の内紛にも関与。
文明17年(1485)の飫肥城攻撃の際に、
清武城の陣中で病死しています。


第七代城主大用公伊東尹祐之墓(左)」、
伊東尹祐公側室福永氏之墓(右)」。
7代城主伊東尹祐の墓と、
尹祐の側室福永氏の墓。
6代伊東祐国の嫡男でしたが、
祐国が島津忠昌と戦って戦死した為、
幼くして家督を相続しました。
成長すると島津家との戦いを開始し、
領土拡大を図りましたが、
豊後の大友家が仲介に入った為、
島津家の日向国三俣院の割譲で和睦。
その後は北郷家とも争っており、
撃退されるも着実に版図を広げます。
しかし大永3年(1523)の戦いにおいて、
陣中にて病死しました。


第八代城主岳總公伊東祐充之墓(左)」、
第十一代城主円光公伊東義益僑之墓(右)」。
8代城主伊藤祐充の墓と、
11代城主伊東義益の墓。
8代祐充は尹祐の側室福永氏との子で、
福永氏は尹祐より寵愛を受けた為、
その子である祐充が兄らを差し置き、
継嗣となって家督を相続。
この為外戚の福永氏が国政を専横し、
伊東家の勢威は盛んではあるものの、
家中は非常に不安定でした。
祐充は23歳で病死しますが、
6代祐国の三男伊東祐武が反乱を起こし、
福永一族は抹殺されています。
11代義益は10代伊東義祐の庶子で、
嫡男歓虎丸の早世で後継者に選ばれ、
父義祐の隠居に伴い家督を相続しており、
義祐の後見の許で伊東家全盛期を構築。
温厚な性格ながら智勇に優れ、
父以上に家臣団、民衆から慕われました。
しかし僅か9年で病死しており、
葬儀の際は都於郡城下の全てが剃髪し、
その菩提を弔ったとされています。

これらは戦国以前の伊東家当主の墓で、
現存する全てのもののようです。

■関連記事■
宮崎県日南市 五百祀神社/飫肥藩伊東家墓所
 飫肥藩伊東家の歴代墓所。
東京都台東区 谷中霊園/伊東祐相墓所
 飫肥藩13代伊藤祐相の墓。
宮崎県日南市 飫肥城跡
 飫肥藩伊東家の居城跡

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です