廃仏毀釈という仏教を廃する運動は、
明治政府が推進したものではありませんが、
全国的に破壊された寺院は数多い。
僕の地元である下関でも、
安徳天皇の墳墓のある阿弥陀寺が廃され、
赤間神宮となっています。
実際に腐敗していた寺院もあれば、
民衆から慕われた寺院が、
破壊された例もあるでしょう。
日本人の中にたまにいる、
「お祭り騒ぎでやり過ぎる人達」や、
「意味を履き違えた人達」が、
これらを破壊した例もあったでしょうし、
藩の方針として廃仏に至った例もあります。
とはいえ仏教が根絶されたわけではなく、
一過性の熱病のように全国で広まった後、
すぐに収束しました。
藩主家の菩提寺も殆ど残っておりますし、
地元に根ざしていた寺院が、
簡単に廃されることもありません。
上記の阿弥陀寺が赤間神宮になったのは、
天皇陵が寺院では変なので、
神社に改められたという、
ごもっともな理由もあったりします。
とはいえ藩主家が神式に改める例もあり、
薩摩藩島津家などは菩提寺を廃しています。
今回の五百祀神社も菩提寺が廃された例。
「五百禩神社」。
元々は藩主伊東家の菩提寺である報恩寺で、
明治5年に廃仏毀釈によって廃寺となり、
伊東家の氏神である板敷八幡社が遷座され、
五百禩神社になりました。
※6代当主伊東祐持が都於郡に城を構え、
最後の藩主伊東祐帰の代まで、
5百余年経った事に由来しています。
「幣殿」。
本殿が完成したのは明治9年。
幣殿及び渡殿を増設したのが明治37年で、
盆には郷土舞踊泰平踊が行われるようです。
これは敵対する薩摩藩と和解した事を祝い、
士民共に踊ることが許された珍しい行事。
盆というのは基本的に仏教行事なので、
報恩寺だった頃も踊られていたのでしょう。
「伊東家墓所」。
本殿の裏側に旧報恩寺の墓地があります。
神社らしからぬ不思議な光景。
完全に寺院の様式ですね。
「正四位子爵伊東祐歸墓」。
飫肥藩14代藩主伊東祐帰の墓。
13伊東祐相の長男として生まれ、
明治2年に父の隠居で家督を相続。
程なく知藩事に就任しました。
廃藩置県後には東京に移住。
鵜戸神宮の宮司を務めた際には、
旧領の飫肥に戻っていますが、
宮司退任後は再び東京に戻っています。
「正三位勲三等子爵伊東祐弘墓」。
14代当主伊東祐弘の墓。
明治13年に祐帰の長男に生まれ、
父の死去に伴い14歳で家督を相続。
東京帝国大学法科大学を卒業し、
後に貴族院子爵議員を務めました。
祐帰以前の墓は宝篋印塔となっており、
どれがどれだかよくわかりませんでしたが、
13代伊東祐相以外は揃っているようです。
旧報恩寺墓地には、
藩主家以外にも武家の墓所が並びます。
「平部嶠南墓」。
幕末期の家老平部嶠南の墓。
藩校振徳堂の教授を経て藩政にも関与し、
安政元年に隠居しますが、
文久3年に復帰して世子の授読を務め、
番頭、中老を経て家老に就任。
幕末期の飫肥藩を支えました。
廃藩後は日向国の地史や資料を編纂し、
日向地誌、日向纂記、六鄰荘日誌等、
江戸末期~明治初期の日向の歴史資料を、
数多く残しています。
「侯爵小村壽太郎墓」。
墓地の一番奥側にある小村寿太郎の墓。
英、米、露、清等の公使や大使を務め、
日英同盟の締結、ポーツマス条約の締結、
条約改正完成等の業績を残した人物。
東京の青山霊園にも墓があります。
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