飫肥藩の藩校振徳堂は、
11代藩主伊東祐民が開いた学問所を、
天保2年に13代伊東祐相が再建したもの。
校名は孟子の又従而振徳之に由来。
安井息軒の父安井滄洲が総裁を務め、
息軒や稲津済、落合雙石が教授となり、
小倉処平や小村寿太郎等を輩出しています。
「振徳堂」。
振徳堂は廃藩置県に伴い廃校となりますが、
建物は西南戦争で飫肥隊に利用され、
尋常高等小学校、青年学校、
飫肥保育所を経て老朽化していましたが、
市民の募金により修理復元されて、
現在に至ります。
「振徳堂碑」。
振徳堂脇に建つ立派な石碑。
昭和13年9月に建てられたもの。
「小村寿太郎像(左)」、
「小倉處平顕彰之碑(右)」。
敷地の北西端には小村寿太郎の胸像と、
小倉処平の顕彰碑が建てられています。
教科書に必ず載る小村寿太郎は、
振徳堂の代表的な出身者。
西南戦争で戦死した小倉処平は、
小村の恩人ともされており、
小倉の招集によって小村は見出され、
米国留学を経て外務省へ出仕しています。
小村の活躍期は幕末期ではありませんが、
不平等条約撤廃を成し遂げた外相ですので、
そういう意味では大変重要な人物。
その小村の生家に行ってみます。
「小村寿太郎生家」。
小村は飫肥藩士小村寛平の長男に生まれ、
藩校振徳堂に学んでいます。
小倉は優秀な子弟を長崎に留学させており、
小村もその中に含まれていました。
長崎で英語を数ヶ月学び、
翌年には大学南校に入学しています。
小村は第1回文部省海外留学生に選出され、
ハーバード大学で法律を学び、
帰国後は司法省に出仕。
外務省へ移った後は各国公使等を歴任し、
第1次桂内閣の外務大臣に就任します。
対露の為に重要視された日英同盟を締結し、
日露戦争後のポーツマス講和条約に調印。
その内容で国民の批判を浴びますが、
実際には戦争継続が困難な程、
当時の日本は疲弊しており、
後世でこの交渉は高く評価されています。
第2次桂内閣でも外相を務め、
日米通商航海条約を調印。
幕末より続く関税自主権の回復を果たし、
日露協約締結や韓国併合にも関わりました。
この建物は一度振徳堂の裏手に移築され、
大正10年に再びここへ戻されたもの。
老築化が進んでいたものが修復されて、
一般公開されています。
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