日向伊東家は島津家と争いつつ版図を広げ、
戦国時代の11代当主伊東義祐の頃には、
佐土原城を中心に48の支城を擁し、
日向国に君臨していました。
島津家とは一進一退の抗争を繰り広げ、
80年以上の争い(飫肥の役)を経て、
伊東家は日向国のほぼ全土を掌握し、
その最盛期を迎えます。
しかし木崎原の戦いで大軍を誇る伊東勢は、
島津義弘の計略により1/10の島津勢に敗れ、
主だった武将の多くを討死させてしまい、
次第に勢力は衰退していきました。
支城は次々と攻略され、寝返りも相次ぎ、
伊東家は本拠の佐土原城を捨てて北上。
※豊後落ち。
縁戚関係にあった大友宗麟を頼り、
大友勢の大軍を持って日向に侵攻しますが、
耳川の戦いで島津勢に敗れて、
大友家も同じく多くの将兵を失い、
大友家衰退の要因となっています。
12代当主伊東祐兵は伊予に渡り、
河野家の庇護を経て羽柴秀吉に仕官。
山崎の戦い等で活躍し、
九州征伐では先導役を務めて功績を挙げ、
旧領であった飫肥を取り戻しました。
関ヶ原の戦いでは西軍に属していましたが、
黒田如水のとりなしで東軍となり、
宮崎城を攻略するなどの功績を挙げて、
所領を安堵されるに至り飫肥藩を立藩、
江戸時代を通じて伊東家が支配しています。
「大手門」。
昭和53年に復元された櫓門。
復元には樹齢100年以上の飫肥杉が、
4本も使用されたという。
「大手枡形」。
大手門をくぐると枡形になっています。
土塀には全て鉄砲狭間が付いており、
枡形に入った敵軍を一網打尽にする構造。
枡形を過ぎて左手へ進みます。
「しあわせの杉(本丸西側虎口)」。
登城路先の枡形に立つ4本の杉。
中心がパワースポットとなっている様です。
パワースポットでパワーを貰って本丸へ。
「飫肥城歴史資料館」。
本丸南西端にある資料館。
飫肥藩ゆかりの歴史的資料220点を、
展示しています。
「本丸跡(飫肥小学校)」。
政庁及び本丸御殿のあった場所は、
現在は日南市立飫肥小学校となっています。
「飫肥城の鐘」。
飫肥小学校の敷地内にある鐘堂で、
張出構造の箇所に建てられています。
軍用又は民間時報に使用されますが、
鐘は昭和18年に金属供出で失われ、
現在の鐘は昭和36年に再造されたもの。
再建は良いのですが飫肥城の鐘と刻まれ、
残念な感じになっています(笑)。
「松尾の丸」。
本丸西側にある小高い丘陵が松尾ノ丸跡で、
書院造の御殿が復元されています。
本丸跡が小学校となっている為、
松尾ノ丸跡に藩主御殿を復元したとの事。
旧本丸へ。
飫肥城は伊東家が何度も攻めて落とした城。
本来は戦闘要塞として大小13の郭があり、
元禄6年(1693)に新しく本丸が完成するまで、
旧本丸に藩主御殿がありました。
「旧本丸跡」。
寛文6年(1666)、延宝8年(1711)、
貞享元年(1684)と3度の地震で地割れが発生。
これが新しく本丸を造る要因となりました。
以後は使われる事はなくなって、
百年を超える飫肥杉が自生するに至ります。
「旧本丸北門」。
旧本丸北側にある薬医門。
復元と思われますが、
説明板が無いので詳細は不明。
幕末の藩主13代伊東祐相は、
儒学者稲津済を登用して兵制改革を進め、
護国隊、殉国隊、神変隊、郷勇隊を編成。
ミニエー銃等の洋式銃を購入し、
洋式の練兵も行っています。
また儒学者安井息軒は飫肥藩の出身で、
藩政にも深く関与していましたが、
藩内保守派の妨害のより失脚。
江戸で三計塾を開き逸材を育てました。
藩内には守旧派、保守派も多く、
藩論が纏まらず藩の行動は控えられますが、
平部嶠南や長倉訒、小倉処平兄弟等、
多くの人材を輩出。
ポーツマス条約時の外務大臣小村寿太郎も、
この飫肥藩の出身です。
坂本龍馬、中岡慎太郎の仇を討つ為、
海援隊及び陸援隊は、
暗殺に関わった三浦休太郎を襲撃。
※実際には関わっていない。
飫肥藩士長倉訒と平与市は、
その日の三浦の酒宴に参加していますが、
2人は斎藤一や大石鍬次郎らの活躍で無傷。
あまり語られていない話ですね。
西南戦争では旧飫肥藩士が西郷軍に参加。
飫肥隊は西郷軍の中でも勇猛を称えられ、
1000余名中200余名の戦死者を出し、
小倉処平など多くの逸材を失っています。
【飫肥藩】
藩庁:飫肥城
藩主家:日向伊東家
分類:5万1000石、外様大名
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