島田虎之助の追剥ぎ退治

北浦街道の小串-湯玉間に、
犬鳴岬と呼ばれる岬があります。
響灘を望むなんとものどかな場所で、
天気がよく波の穏やかな日は、
地中海を思わせる絶景が味わえます。

そのアクセントとなっているのが「廃墟」。
廃墟と聞いていきなり怖い感じになりますが、
決してそうではありません。
エメラルドブルーの海と青空に、
ぽつんと1軒だけ立つ「廃墟」。
その光景は宮崎アニメのワンシーンか、
フランス映画のような雰囲気なのです。

釣り客位しか訪れませんが、
知られざる名所といったところです。
この廃墟は誰かの別荘だったのでしょうが、
なんなのかはよくわかりません。

さて、前置きが長くなりましたが、
幕末(天保)の三剣士の一人島田虎之助が、
安岡に道場を開いていた事は、
前回お話致しました(記事はこちら)。

虎之助の剣の腕の評判は良く、
隣接する福江村沿革流棒術道場の福永某と、
互いの門弟がどちらが強いかと喧嘩になります。
門弟の争いはやがて収拾がつかなくなり、
しかたなく福永某は虎之助に挑むのですが、
全く歯が立たずに返り討ちされたとの事。
この虎之助に挑んだ福永某が、
沿革流棒術九世師福永正介なのか、
(記事はこちら
その先代が親族なのかはわかりません。
ただ沿革流棒術の師範代クラスが、
虎之助に挑んだことは間違いないようです。

まあそういう事で評判が高かった訳ですが、
当時の犬鳴岬に追剥ぎが頻繁に出没。
夜中に小串から湯玉に向かう者の前に現れて、
荷物はおろか身包み全て奪いをいました。

困り果てた両浦の地元衆は、
虎之助の腕を見込んで追剥ぎ退治を依頼。
しかし虎之助は名のある剣士なら良いが、
たかが追剥ぎごときと断りますが、
妙光寺の住職に困ってる人の為と説得され、
追剥ぎ退治を引き受けることにします。

門弟4~5名と小串に向かい、
小串の茶屋で門弟達を待たせて一人犬鳴岬へ。
岬に着くと案の定三人の追剥ぎが前後を塞ぎ、
有り金と着ている衣類刀剣を投げ出せ
と威嚇してきます。
虎之助はその三人をまたたくまに打ち据え、
丸裸にして街道沿いの松に縛り付けました。
そして矢立の筆で、
この者共この岬に巣喰う追剥ぎなり
 依って引捕え以後の見せしめとして
 寒ざらしにするものなり

 天保二年卯十二月十五日島田虎之助
と書いて小串に引き上げ、
門弟と共に安岡へ帰りました。

翌日、縛り付けられた追剥ぎ達を見て、
地元衆は大変喜んだとの事。
追剥ぎ達は役人に捕えられ、
松小田刑場(記事はこちら)で斬首となります。

この話はきっちり記録に残っており、
年月日まではっきりとしています。
剣豪ともなると追剥ぎ程度の連中ならば、
三人まとめて打ち据えることも可能なんですね。

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