幕末(天保)の三剣士といえば、
男谷精一郎、島田虎之助、大石進の三人。
この中の一人である島田虎之助が、
下関の横野で道場を開いていた事は、
あまり知られていません。
中津藩士島田市郎右衛門の末子に生まれ、
人吉藩士宮原兵衛之助の養子となりますが、
出奔して中津に帰って来たとされ、
中津藩剣術師範堀十郎左衛門の弟子となり、
剣術修業に明け暮れて上達し、
藩内では相手になる者がいなくなります。
意を決して九州一円の武者修行の旅に出て、
各地の名のある剣士を訪ね歩き、
一度中津に戻った後に再び修行を思い立ち、
江戸へ向けて出発しました。
その道中に門司を通って下関へ。
その頃の安岡の漁師達は、
漁場がよそ者に荒らされ困っており、
他からやってきては漁場を荒らし、
彼らは注意すると暴力を振るうので、
偶然にも妙光寺に滞留していた虎之介に、
剣術を教えてもらう事になります。
虎之助は横野八幡境内に道場を開きますが、
地元安岡の漁師達はもちろんの事、
噂を聞きつけた諸国の者も続々と入門し、
すぐに数百人の門弟ができました。
「横野八幡宮」。
意外と広い境内です。
ここの敷地のどこかに道場があったようで、
境内には横野天満宮もありますが、
その頃はまだ別の場所にあったという。
虎之助の道場が繁盛したおかげで、
安岡には剣に覚えがあるものが多くなり、
そうなると漁場荒らしも手が出せなくなり、
安岡の漁場は平和になります。
虎之助は1~2年の滞在後、
江戸に向かって旅立つ事となりますが、
安岡の住民達は虎之助に感謝し、
涙を流して別れを惜しみました。
安岡滞在が一番印象に残っていたと、
後に門弟に語っていたらしい。
その後も安岡周辺で武術が盛んに行われ、
幕末に安岡で組織された吾住隊が、
※後の長府報国隊六番小隊。
小倉戦争や戊辰戦争で活躍したのには、
こういう土壌があったからでしょう。
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