萩市の市街地のはずれ、
椿地区の山の斜面に立つ光福寺。
ここに下関で暗殺された長崎の砲術家、
中島名左衛門の墓があります。
中島は長州藩から砲術教授として招かれ、
藩主世子毛利定広と共に下関に赴き、
外国船打ち払い後の砲台巡視を行いました。
竹崎の白石正一郎邸で戦術会議が行われ、
長府藩主毛利元周、総奉行の毛利宣次郎、
京より亡命中の中山忠光、
庚申丸艦長松島剛蔵、
そして光明寺党の壮士らが集まります。
この席で砲台が急ごしらえで貧弱であり、
錬度の低く外国が本気なら勝てないと指摘。
これは実に真っ当な指摘でしたが、
中島の指摘を聞いた光明寺党は激怒し、
侮辱されたと中島を暗殺してしまいました。
その後の外国戦艦の報復攻撃により、
長州砲台はことごとく破壊され、
村は焼かれて軍艦は撃沈。
中島の指摘どおりの結果となったわけです。
中島の墓は暗殺現場(呉服店藤屋)隣ですが、
下関市新町 妙蓮寺/中島名左衛門の墓
萩の光福寺にも墓があるようです。
※長崎の正覚寺にも墓があるという。
「光福寺」。
市街が見渡せる眺めの良い場所にありました。
本堂の裏に墓所があります。
・・で、すぐ見つかりました。
本堂のすぐ裏の急斜面。
「贈正五位 松堂中島喜勝墓」。
下関の墓より立派です。
なぜ中島の墓が萩に建てられたでしょう?
この謎のヒントとして光福寺は、
鋳物師の郡司家の菩提寺だということ。
下関の加農砲を製造したのは郡司喜平治で、
郡司は中島とは面識があり、
その関係で光福寺に墓が建てられました。
もちろん位階付きの墓なので、
明治期に建てられたものですね。
■関連記事■
・下関市新地町 妙蓮寺/中島名左衛門の墓
妙蓮寺の山門脇に墓があります。
・下関市前田 前田台場跡
結局長州砲は役に立ちませんでした。