萩の乱の首謀者として斬首された前原一誠。
彼の墓所は、萩の弘法寺にあります。
「弘法寺本堂」。
弘法大師空海が唐から帰国した際、
船が漂着した場所に弁財天が老人に姿を変え、
弘法大師を呼び寄せたとされます。
その後、弘法大師は自分の像を彫刻し、
ここを衆生結縁の場としたことが寺の由緒。
山号の寄舟山や寺号の弘法寺の名も、
この弘法大師に由来します。
内訌戦の際には干城隊の営所となりました。
「前原一誠墓(中央)」、
「佐世一清墓(左)」。
境内墓地に立派な墓石が建てられています。
佐世一清は前原の実弟で前原と同じく処刑。
前原は大組佐世家の長男として生まれますが、
落馬事故で体を痛めて武道を諦めて学問を志し、
勉学に励んで松下村塾へも入門しています。
※入門は実質10日程度でしたが・・・。
その後は尊皇攘夷運動に邁進し
高杉晋作が奇兵隊を組織するとこれに参加。
功山寺挙兵の際にも始めから参加しました。
長州内訌戦が終了し正義派政権が発足した際、
旧俗論派と正義派との板挟みで苦しむ前原を、
見かねた晋作が下関に呼んだことも有名です。
小倉戦争の際は晋作の右腕として活躍し、
晋作が病により一線を引いた後は、
参謀として晋作の代わりを勤めました。
維新後は越後府判事、兵部大輔を歴任しますが、
新政府との方針が合わず萩に帰ってしまいます。
その後、萩の乱を起こすわけですが、
僅か3日で鎮圧され小倉戦争や北越戦争の参謀、
新政府の軍部トップ兵部大輔の経験者にしては、
あまりにもお粗末な内容でした。
前原は吉田松陰に「久坂、高杉に才識は劣るが、
人物の完全さにおいては二人は佐世に及ばない」
と評価されています。
つまり誠実な人であったと思われます。
ですが誠実な人柄と才能は別物で、
軍事の才能は無かったのではないでしょうか?
とはいえ前原が特別ダメだった訳ではなく、
明治10年までに起こった数々のクーテターは、
そのことごとくが失敗、鎮圧されており、
唯一の成功例が功山寺挙兵だった訳です。
※八月十八日の政変や王政復古は、
軍事ではなく政治クーデターです。
いわば軍事クーデターは成功するものではない。
しかし誠実ゆえに士族達を見捨てる事が出来ず、
前原は立ち上がるわけですが、
これは西郷隆盛にも通じます。
平成28年。
前原が桜山神社に合祀されました。
(記事はこちら)
招魂場に霊標が建てられる事はありませんので、
ここにあるのが唯一の墓碑というわけです。
■関連記事■
・山口県萩市 前原騒動慰霊碑
萩にある萩の乱の慰霊碑。
・山陽小野田市 来島又兵衛誕生之地など
山陽小野田市に前原の旧宅跡があります。
・島根県出雲市 前原一誠之碑
萩の乱幹部らが捕縛された地。