表高と実高

長州藩36万石の石高ながら、
幕末期になぜあれ程の資金力があったのか?

これについては色々と説はありますが、
よく言われるのは、
1)表高と実高が大きく違っていた。
2)村田清風の改革で膨大な資金力を得た。

どちらも正解でしょう。
特に表高は厳封された時からのもので、
西軍総大将が功績ある東軍大名より高いと、
どうしても釣り合いが取れないので、
幕府は実高の7割を表高としたようです。
この時点で表高36万9411石で、
実際の石高は53万9268石でした。

これは長州藩以外も当初確定したものが、
幕末までそのまま使われているのが殆ど。
各藩は新田開発で実高を伸ばしたのですが、
表高が変わることはありませんでした。

表高が上がれば手伝普請等も変わりますが、
格式も上がって少々ややこしくなるので、
そのままにしときましょうというのが、
幕府側の理由だったのでしょう。

そんな訳で表高より収入が多いのですが、
収入が多くても支出が多ければ、
その藩は潤わないわけです。
不作物価高騰天災藩主の散財等、
裕福な藩は多くなかったようですね。

長州藩や薩摩藩の資金力は、
石高よりも貿易等によるものでしたが、
それはさておき、
薩長土肥の表高と実高を見てみましょう。

薩摩藩 表729,567石 実867,027石(籾等を含)
長州藩 表369,411石 実988,004石
土佐藩 表242,000石 実495,486石
肥前藩 表357,036石 実724,739石

長州藩はほぼ100万石ですね。
なんと薩摩藩よりも多い・・・。
薩摩藩は籾高(籾の石高)を含む数値ですし、
天保期に取り入れられた米貯蔵法により、
良質のまま長く保存できたようで、
長州米は高値で取引されています。

このように実高が高いというのは、
薩長土肥以外にもある事例ですが、
表高より実高が低い藩も多くありました。

その多くは小藩で災害での水田の減少
農民の離散などで石高が減少し、
資金不足からその対策が出来なかった例。

しかし大藩でも実高が低い例がありました。
水戸藩 表350,000石 実306,953石
紀伊藩 表555,000石 実539,469石 

なんと御三家が実高が表高より低い!
紀伊藩は1.5万石程度の差ですが、
水戸藩は4.5万石位の差があります。
水戸藩は検地で28万石だったのですが、
他の御三家に比べて余りにも低かったので、
水増しして幕府に提出。
これにより慢性的な財政難になったとされ、
水戸藩士達はその不満がモチベーション??
いえいえ水戸学の影響でしょうけとね・・。

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