第一次長州征伐の長州藩降伏条件ひとつとして、
五卿の領外移転が幕府より要求され、
月形洗蔵ら筑前勤王党の周旋によって、
五卿は大宰府への移転が決まりました。
藩内は高杉晋作のクーデターにより、
既に内訌状態となっていましたが、
元治2年1月14日に五卿は馬関を出航。
途中で彦島の福浦湾で船中泊し、
翌日に黒崎湊に上陸しており、
そこから陸路で大宰府を目指しました。
晋作は五卿の領内慰留を望んでいましたが、
五卿はクーデターなど成功するとは考えず、
自らの意志で大宰府行を決定したようです。
それを知った晋作は大きく嘆き、
下記の歌を詠みました。
「死を以って 遠登女申すを
遠登まりなされ 長門國にも武士もある」
訳:死をもって留まってくれと言ってるから、
留まって下さい。
長州藩にも武士はいるのだから。
五卿からすればそんな無謀に付き合ってたら、
こっちの身が危ないって思ったのでしょうね。
無理もありません。
八幡西区黒崎駅北側(五卿上陸地の場所)
五卿上陸地の碑は舟町と呼ばれる場所。
文字通り舟町があったのでしょう。
黒崎湊は上方行き乗合船の発着場でした。
「史跡 五卿上陸地」。
訪問時は大雨。雨に濡れながらの一枚です。
この碑は100m西側にあったとの事ですが、
埋め立てや工場の建設の関係で、
現在の位置に移されたのでしょう。
北九州の湾岸はどこも工業化が進んでおり、
ほとんど当時の面影が残るところはありません。
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大宰府の方が楽しそうです。