松ヶ岡公園はいわき市で最も古い公園で、
日露戦争勝利を記念して整備されました。
ここの公園に安藤信正の銅像があるようです。
松ヶ岡公園のある丘陵地は、
薬王台と呼ばれ岩城氏の出城があったとされ、
磐城平藩の時代になると放置されて、
一部の畑と竹林に覆われた山でした。
「天田愚庵像」「天田愚庵邸」。
松ヶ岡第二公園にある天田愚庵の住居。
この人は有名人に次々と出会うという、
まるで漫画のような人生を歩んだ詩人。
愚庵は磐城平藩士甘田平太夫の子として生まれ、
戊辰戦争で父母と妹は行方不明となっています。
上京して正院の大主記小池祥敬の食客となり、
そのツテで山岡鉄舟と知り合って禅道を学び、
また落合直亮について国学を学びました。
小池に誘われて西国を旅しますが、
滞在中の佐賀で佐賀の乱が勃発。
関係者と間違われて投獄されてしまいます。
その際に獄中で丸山作楽と出会い短歌を学び、
出獄して長崎で旧薩摩藩士鮫島高朗と知り会い、
その紹介で桐野利秋を訪ね鹿児島に滞在。
東京に帰ると不応為罪で捕らえられ、
出所後に仙台の兄を頼っていましたが、
半年後に父母妹を探して奥州各地を探索します。
東京に帰ると壮士らと交友するようになり、
これを鉄舟が咎めて清水次郎長に預けられ、
手に職を付ける為写真師を志し江崎礼二に入門。
旅の写真師となって諸国を放浪しますが、
その間も父母妹の手がかりは見つからず。
次郎長の養子となって開墾事業に務めますが、
事業不振により断念して養子も辞退しています。
その後、数職を経て禅僧となり、
京都に草庵を建てました。
西国巡礼を行いその経緯が「巡礼日記」に綴られ、
日本新聞社より出版。
正岡子規とも交友していたようで、
子規に影響を与えたとされています。
明治37年、死去。
山岡鉄舟、清水次郎長、桐野利秋、正岡子規・・
有名どころオンパレード。
無名の人を大河の主役にするならば、
こういう人がいいんじゃないかと思います。
「水竹真木君碑」。
第二公園と第一公園を結ぶ松ヶ岡橋手前の碑。
磐城平藩の恭順派であった真木光の顕彰碑です。
真木光は下級武士でしたが努力して学文を修め、
藩校施政堂の助教頭取となり、
御徒目付や兵学師範を命じられ、
戊辰戦争時には軍事掛に抜擢されます。
世良修蔵と会見して戦意のなきことを伝え
恭順の姿勢を示していましたが、
旧幕府軍の白河夜襲により、
返事を得られぬまま磐城平へ帰還。
実権を握る安藤信正に恭順の利を説きますが
信正は奥羽越列藩同盟への加入を決意した為、
磐城平藩は抗戦することに決定。
軍事掛の職務を果たすべく潔く戦いましたが、
敢え無く磐城平城は陥落。
戦後の事態収拾に奔走しています。
「松ヶ岡第一公園」。
現在は少しばかりの遊具がある程度ですが、
昔は観覧車やメリーゴーランドもあったらしい。
公園というより遊園地だったようです。
「磐城平藩主對馬守安藤信正公」。
旧藩士達の集いである平安会の提唱により、
大正11年の建立された銅像。
先の戦争による金属類供出によって失われ、
現在の像は再建された2代目の銅像です。
裃姿、右手に扇子を持っており、
凛々しい顔で立っています。
坂下門外の変で負傷したにもかかわらず、
直後に包帯姿でオールコックと面会するなど、
気骨ある人物の雰囲気が醸し出され、
結構カッコいい銅像でした。
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