仕事で福島県いわき市へ。
例の如く仕事の合間に幕末史跡めぐり。
いわき駅北側の磐城平城跡を訪問しました。
いわき駅前から見た[磐城平城跡]。
北口のロータリーから見える小高い丘が、
磐城平城の本丸のあった場所です。
磐城平藩は老中安藤信正の治めた藩。
安藤信正は井伊直弼政権下で老中となり、
井伊暗殺の混乱を収拾させるて実権を握り、
失脚していた久世広周を老中首座に迎え、
公武合体政策を推進した人物。
和宮降嫁も彼の功績です。
[坂下門外の変]によって負傷してしまい、
3ヶ月後に老中を罷免されて失脚。
この失脚は諸説あり真相はわかっていません。
襲撃時に背中に傷を受けた事で、
武士の面目を失ったというような、
簡単な理由ではなさそうですね。
駅北口を出てすぐのところに看板があります。
「磐城平城本丸跡地」と書かれ、
矢印が右の坂の方を向いています。
矢印に従って急な坂を登ると、
駐車場らしきものがありましたが、
ロープで入れないようになっています。
その先に木製の門がありました。
近くの民家におじさんがいたので、
「城跡へはどうやって行くのですか?」
と尋ねると、
「入れないよ。私有地だから」との事。
それ以上教えてくれそうもないし、
招かれざる客感が伝わって来たので、
「わかりました。ありがとうございます」と、
そそくさと退却。
別の道から登ってみようと、
西側の道から本丸を目指します。
「旧平城 大手門界隈」。
西側から坂を登りきったところにありました。
遺構らしきものはありませんが、
このあたりに本丸大手門があったのでしょう。
ちなみに[磐城平藩]なのか、
[磐城]にある[平藩]なのか?
詳しく調べてみると、
戦国時代は[平]という地名であったようで、
江戸時代に[磐城平]となったらしく、
明治期に[平]と戻されて現在に至っています。
従って[磐城平藩]が正しいようですね。
本丸があったあたりは、
広場になっているようですが、
門が閉じられていました。
「龍ヶ城美術館」。
・・・閉鎖中のようです。
遺構らしき石垣はありました。
ネットで事前に調べており、
なんとなく想像はできましたが、
あまりにも何もない。あまりにも残念。
私有地だとか色々と理由はあるのでしょうし、
頑張ってる人達もいらっしゃるのでしょうが、
もっとどうにかならないものでしょうか?
安藤信正が失脚して、
隠居謹慎に2万石減封を受けた後は、
長男の安藤信民が3歳で跡を継ぎますが、
翌年に病死してしまいます。
その為、甥の安藤信勇が藩主になりましたが、
彼も14歳と若年であったため、
藩の実権は信正がそのまま握ります。
新政府が発足すると、
江戸の信勇は上京して恭順を誓いますが、
国元の信正は奥羽越列藩同盟に参加。
信勇は飛地に移り恭順の姿勢を貫きました。
戊辰戦争が始まって新政府軍が平潟へ上陸。
泉藩、湯長谷藩を落とし浜通りを侵攻すると、
同盟軍にとって磐城平は重要であった為、
仙台藩、相馬中村藩、米沢藩の援軍と共に、
磐城平城の籠城して強固に抵抗します。
2度の攻城戦を守り抜きますが、
3度目の総攻撃でついに陥落。
信正および諸藩兵は脱出し、
家老上坂助太夫が城に火を放ち、
磐城平城は焼け落ちました。
磐城平城を脱出した信正は仙台に落ち延び、
片平町の石川大和の屋敷を仮藩邸とします。
仙台藩の降伏により信正も謝罪状を提出。
正式に磐城平藩は降伏しました。
戦後、恭順していた信勇は、
自藩の反抗を理由に謹慎処分となり、
磐城平から磐井への転封が命じられますが、
7万両の献金で磐城平で再興が許されます。
信勇は知藩事となった後、廃藩置県で免官。
他の藩主同様に東京へ移住しますが、
晩年は磐城平に戻っています。
今回の訪問は非常に残念な結果でしたが、
いずれ何らかの手が加えられるらしいので、
それに期待することにしましょう。
【磐城平藩】
藩庁:磐城平城
藩主家:重信流安藤家
分類:6万7000石、譜代大名
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