大分県中津市 増田宋太郎誕生地

福澤諭吉記念館隣には、
増田宋太郎の誕生地があります。

福沢旧宅には5年前に訪問済み。
(記事はこちら)。
当時はブログを始めたばかりで、
見返すと内容はが薄くて恥ずかしいかぎり。
今もそれ程濃いという訳でもありませんが、
当時は絵文字など使っていたんだなと、
なんだか懐かしくなります。
※ブログの移転で絵文字は無くなっています。

それはさておき増田宋太郎の誕生地は、
福沢諭吉旧宅のすぐ近くにあるのですが、
それもそのはずで
増田宋太郎と福沢諭吉は再従兄弟の関係で、
増田は福沢の母のいとこ増田久行の長男。
福沢と14歳の差がありましたので、
子供の頃に遊んでもらった程度でしょうし、
福沢も19歳で中津を離れていますので、
本人は遊んでもらった記憶もないはずです。


増田宋太郎先生宅址」。
公園のような場所が増田家があった場所。
ここで中津藩士増田久行の嫡男に生まれました。
戦前は増田を祀る神社があったそうですが、
現在はなくなっています。


西南役中津隊長 増田宋太郎先生誕生之地」。
国学を学んで攘夷思想を持つ増田は、
洋学に傾向する福沢の暗殺を企てますが、
福沢に論破されて断念したとか、
福澤が服部五郎兵衛と飲み明かした為に、
機会を逸した等の理由で暗殺に失敗しています。
慶応義塾に入ったのはかなり後の話なので、
論破されたというのではなさそうです。

西洋化を推し進める新政府に失望し、
増田は自由民権運動に奔走。
一時は慶應義塾へ入学していますが、
母の病を理由に中津に帰郷しています。

明治10年に西南戦争が勃発すると、
中津隊を結成して中津支庁を襲撃。
すでに劣勢であった西郷軍と合流し、
九州各地を転戦しました。
西郷が解散令を発した後も西郷に従い、
城山で戦死したとされますが、
捕えられて斬首されたともされます。


西南役中津隊士」碑。
誕生地碑の隣に建てられている中津隊士名簿。
中津隊は西郷軍に呼応した士族隊の中で、
本隊から最も離れた地で蜂起した部隊でした。

福沢は政府に反旗を翻した薩軍を評価しており、
その戦列に郷土から中津隊が参加した事実に、
大変満足していたようです。

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