中津隊隊長増田宋太郎の墓がある安全寺。
「安全寺」。
元々は闇無浜神社の宮寺で、
天台宗の涼雲寺という寺院でしたが、
細川家時代に曹洞宗に改められてました。
山門前に五輪墓が並んでおりますが、
誰の墓なのかよくわかりません。
「安全寺本堂」。
由緒書には「黒田孝高が入国し堂于を建立」
とありますが、そこまで古そうではないので、
たぶんその頃のものではないようです。
「生田家代々墓」。
中津藩で家老等を務めた生田家の墓。
鐘楼の側にありました。
「増田宋太郎 同妻鹿子墓」。
中津隊隊長増田宋太郎の墓。
増田は鹿児島で戦死(又は斬首)しており、
鹿児島の南洲墓地にも墓があります。
この墓は妻鹿子の死後に建てられたもの。
「更生保護の創始者 川村矯一郎顕彰碑」。
川村矯一郎は渡辺重石丸に国学を学び、
維新後は自由民権運動に奔走。
増田宋太郎と盟友で共に中津共憂社を結成。
増田が中津隊と共に西南戦争に参加すると、
大阪で政府転覆を企てて失敗。
捕らえられて静岡県監獄に投獄されました。
獄中の様子や出獄後の状況を目の当たりにし、
金原明善と共に出獄者の保護を開始し
静岡県出獄人保護会社を設立。
静岡県下一円に保護委員を委嘱して、
更生保護施設を設置しました。
明治24年、38歳で死去。
寺の由緒書には
家老の生田家、山埼家、剣術家中西藤九郎、
中西源太、豪商の紙屋右衛門のほか、
儒者野本雪巌・白巌父子、蘭学者大江春塘、
医師の藤野玄洋、
更生保護事業開拓者川村矯一郎の墓等がある
・・とあるのですが、
広い墓所から全て見つける事は至難の業。
結局見つけたのは先程の川村矯一郎顕彰碑と、
増田宋太郎の墓、
そして藤野玄洋の墓だけでした。
「藤野玄洋の墓」。
藤野玄洋は、咸宜園で広瀬淡窓や広瀬青邨、
緒方洪庵の適塾、長崎や大阪の医学所で学び、
帰郷後は中津藩の典医となりますが、
自由な研究をするためにこれを辞しています。
下関の本陣伊藤家に招かれて、
伊藤家の隣に医院を開き、
眼科を専門としながら専門外の治療も行い、
薬湯風呂や休憩棟を設けるなどもしています。
奇兵隊などの諸隊の軍医も兼ねたことから、
伊藤博文とも懇意となりました。
明治10年に阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、
新たに[月波楼医院]を開業しますが、
玄洋の没後は医院の経営が困難となり、
伊藤博文の勧めで妻のみちが医院を改装し、
割烹旅館を開きました。
これが春帆楼の始まりです。
増田宋太郎の墓を目当てに訪問したのですが、
偶然にも下関ゆかりの人物に巡り逢えました。
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