明治天皇は明治初期に全国を巡幸しており、
各地に宿泊や休憩を記念した聖蹟が残されています。
下関市も「明治天皇御上陸地聖蹟」がありますが、
そういえば、それがあるのは南部町だったっけな。
盛岡南部家とは関係ないようで、偶然と思います・・。
明治9年6月2日。明治天皇は東北の巡幸に出発し、
奥州街道を北上して青森まで陸路を進み、
帰路は船で函館に寄って、
7月21日に東京へ戻りました。
その東北巡幸中の7月13日。
野辺地の行在所となった野村治三郎邸に到着しますが、
明治天皇を乗せた巡幸馬「花鳥号」が到着後に倒れて、
そのまま死んでしまいます。
その死を悲しんだ明治天皇は、
花鳥号を常光寺に埋葬し金子を下賜しました。
花鳥号はアメリカ産の御料馬で、
天皇の御馬車を引いていたとされ、
明治天皇自らもこれにまたがる事もあったようで、
手綱さばきに良く応えたとそうです。
後に、勅命によって石碑が建てられました。
石碑は埋葬地である常光寺にあります。
「花鳥号碑」。
碑文は長三洲の作という立派な石碑。
宮内庁より石碑が送られて、ここに建てられたようです。
建立は明治11年で2年も経っており、
その場限りではなく、本当に悲しんだのでしょうね。
でも、肝心の花鳥号の墓は残っていないようでした。
愛宕公園には、その花鳥号の銅像があります。
「花鳥號」銅像。
遠くから近づいてやけに青いなぁ・・と思ったら、
ブルーシートでぐるぐる巻きにされていました。
銅像も寒さで傷むのでしょうかね?非常に残念です。
本来はこのような雄姿が見れるはずでした。
さて、南部といえば南部馬が名産。
南部馬は、馬格が大きく、姿かたちが美しく、気性が良いとされ、
皇室に献上された事も多く、京都でも人気だったとか。
日本の在来馬は小さいながら体質強健で粗飼に耐たとされ、
消化器官が発達していた為に、野草のみでも育成できたという。
寒さにも強く、骨や蹄が堅かったようで、
そのために日本では蹄鉄が発達しなかったそうです。
花鳥号はアメリカ産のトロッターだということで、
日本流の飼育方法や気候で体を壊したのかもしれませんね。
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・京都府京都市 伏見桃山陵
明治天皇の御陵。遺言にて京都に葬られました。