中津を流れる山国川の渓谷である耶馬渓は、
日本三大奇勝と称されており、
日本新三景にも選定された名勝です。
凝灰岩や凝灰角礫岩、
熔岩の侵食によってできた絶景で、
江戸後期までは山国渓と呼ばれていました。
ここを訪れた頼山陽はその絶景に感動し、
漢詩で中華風に耶馬渓天下無と詠み、
ここを「耶馬渓」と命名したという。
「競秀峰」。
巨峰奇岩が約1kmも連なる耶馬渓の名勝。
裾野のトンネルが「青の洞門」です。
絶景なだけではなく難所としても知られ、
断崖絶壁を渡らねばなりませんでした。
ここで命を落とす人が後を絶たない事から、
諸国を行脚していた僧禅海が、
ノミを持って岩盤を掘り、
30余年の歳月で開通させたのが青の洞門。
菊池寛の小説「恩讐の彼方に」は、
主人を殺害して出奔した男が、
己の罪業を感じて出家して全国を遍歴。
耶馬渓を訪れた際に、
通行人が命を落とすのを哀れんで、
罪滅ぼしに洞門の開削を始めます。
やがて開削を続けていると、
殺した主の息子が仇討ちに現れ、
僧となった男を殺そうとしますが、
事情を知って洞門の開通まで待つことに。
次第に手伝うようになって開削が進み、
最終的に開通した際には、
僧の人柄を憐れんで仇討を断念しました。
というお話。
この話はフィクションで、
禅海が殺人を犯したと記録はありません。
禅海は菊池寛の小説のせいで、
人殺しの汚名を着る羽目になりましたが、
全国的に知られるようになりました。
断崖中央に岩の削れたところが見えますが、
洞門が出来るまではそこに鎖が架けられて、
通行人はそれを伝って移動していたという。
この通行人というのは旅人ではなく、
羅漢寺への参拝者だったようで、
写真を撮った対岸側は普通に平坦で、
日田中津往還はこちらを通っていました。
本耶馬渓町樋田周辺。緑が日田中津往還で、
青い線が青の洞門の道。
そのまま進むと羅漢寺への参道となります。
赤丸は樋田の宿場があった場所。
このように青の洞門は旅人の為ではなく、
羅漢寺の参拝者の為の道でした。
洞門が完成以前は対岸から川を渡り、
羅漢寺に行っていた様ですが、
それ程の難所ではなかった模様。
ただ樋田の人達が羅漢寺に行く際は、
2度も川を渡らないといけませんし、
山国川が増水してしまった場合には、
先程の断崖の鎖の道を通るしか、
羅漢寺に行けないという不便がありました。
この難儀を解消する為に、
青の洞門を堀ったというのが真実です。
耶馬渓が絶景を保っている要因のひとつに、
中津藩出身の福沢諭吉の存在があります。
福沢の郷里は耶馬渓の目と鼻の先ですが、
樹木の乱伐で絶景が阻害されるのを防ぐ為、
福沢は一帯を個人資産3万円で買収し、
東城井村(現本耶馬渓町)に寄付しました。
遊学の諸藩士達も通った日田中津往還。
絶景を望んで憂国に思いをはせた志士達も、
少なからずいたかもしれませんね。
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