加賀藩は100万石の大藩として、
諸大名のトップに君臨しましたが、
幕末維新の政局において目立った活躍は無く、
維新の大波に乗り遅れた感があります。
しかし何もしていなかったという訳ではなく、
加賀藩においても尊皇攘夷派はおりましたし、
13代藩主前田慶寧も尊攘派であったようで、
長州藩と近い関係で八月十八日の政変以降は、
長州藩の心情を代弁する建白もしています。
しかし情勢は悪い方に向い禁門の変が勃発。
在京藩士の中には呼応しようとする動きもあり、
長州藩が京に迫る中、藩邸で激論が交わされ、
加賀藩は京都を退去する選択に決しました。
結局、禁門の変で長州藩は敗れた為に、
戦闘に参加しなかった加賀藩の立場は悪くなり、
幕府は慶寧を謹慎処分としています。
藩も幕府の顔色を窺って尊攘派の弾圧を行い、
京屋敷の家老松平大弐を切腹させ、
尊皇攘夷派藩士約40人を処刑しています。
これによって加賀藩の尊攘派は壊滅。
※この弾圧は加賀元治の変と呼ばれています。
加賀藩の筆頭家老本多政均は、
慶寧の謹慎処分や尊攘派の処罰を担当し、
この事により尊攘派の恨みを買っていましたが、
明治2年に金沢城二ノ丸御殿で白昼堂々、
尊攘派の井口義平、山辺沖太郎の2名に襲われ、
刺殺されています。
「金澤縣士多賀賢三郎之墓」。
本多政均暗殺には実行犯2名以外に、
5名の共犯者がいて多賀賢三郎もその一人。
※多賀の他には菅原輔吉、土谷茂助、
岡山茂、岡野悌五郎。
彼らは斬奸趣意書で政均殺害の正当性を訴え、
土谷が草稿を書き多賀が清書をしています。
実行犯2人は政均を討つとそのまま投降。
2人の取り調べが行われ5人の関与が発覚し、
多賀、菅原、岡山、岡野が逮捕され、
土屋は捕吏の到着前に自刃しました。
取り調べは新政府が行って実行犯2人は死罪、
土屋を除く4人には自宅禁固が命じられ、
これをもって暗殺事件は解決しています。
また、藩知事前田慶寧も事態の収束をはかり、
政均の6歳の嗣子資松への遺領相続を決め、
家臣らを安堵させて復讐を控えるように説諭。
実行犯2人も滞りなく死罪が完了しました。
その後、廃藩置県により藩体制は終了。
しかし政均家臣らは復讐をあきらめてはおらず、
本多家家老本田弥一以下15名は復讐を計画。
刑期を終えて県庁に努める岡野を殺害し、
私塾を開いていた菅野も討ち取ります。
多賀は出張の為に関西に向かっていましたが、
追跡されて長浜で殺害されました。
※岡山は逃れて行方を晦ましています。
多賀を含めた3人を討ち取って15人は自首。
世間は「第二の赤穂義士」「本多義士」と称え、
彼らを擁護する声もあったようですが、
伝令役等の3人を除き12人が死罪。
最後の敵討ちとされる臼井六郎事件は、
(記事はこちら)
明治6年の「敵討禁止令」が出た後の事件で、
この本多義士による敵討ちは、
敵討禁止令が出る前最後の敵討ち。
※最後の咎め無しの敵討ち、
最後の免状を得た敵討ち等、
いくつかの最後の敵討ちがあります。
その最後の敵討ちの犠牲者は金沢ではなく、
故郷から少々離れた長浜の地で眠っています。
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