烈婦登波と吉田松陰

江戸時代は現在とは違った価値観で、
賞賛される事柄が違っていました。
現代は人の役に立つ事をした人や、
人の命を助けた人らを賞賛しますが、
昔は忠義の賞賛が多かったようです。
忠臣蔵なんてその典型。
現代でも縁起が良い夢として、
「一富士、二鷹、三なすび」と云いますが、
実はこれは有名な仇討ちにちなんだもの。


①「曾我兄弟の仇討」=富士の裾野で敵討
②「赤穂浪士の討入」=浅野家紋がの羽根
③「伊賀越の仇討」=なすびの特産地

当時は仇討が認められており、
奉行所などに届け出て認められれば、
殺人にはならないという法がありました。
※もちろん色々な制約があります。

基本的に武士階級が仇討をするのですが、
庶民も親兄弟を殺されたならば、
仇を討ちたいえお思うわけで、
場合によってはこれが許されたり、
賞賛されることもあったようです。

長門国大津郡に角山村という村があり、
村にある山王社の宮番である幸吉の妻に、
登波という女性がいました。
夫の幸吉には弟と妹がおり、
妹のは浪人枯木龍之進の妻でしたが、
この龍之進は無職の浪人で、
仕事もせずほっつき歩くロクデナシ
文政四年に龍之進はふらりと帰ると、
待つ身の妻からは当然別れ話が出ます。
それに逆上した龍之進は、妻と舅、
妻の兄幸吉と弟勇助を斬り捨てて逃亡。
登波はその場に居なかった為、
殺されずに助かってはいますが、
舅と義妹、義弟は殺され、
夫幸吉は瀕死の重傷を負ってしまいます。

瀕死の夫を看病し4年後に夫は回復。
これを期に、舅と義妹、
義弟達の仇を討つ為に、
登波は龍之進を探す旅に出ます。
15年間全国を探し回り、
豊前で龍之進を発見。
奉行所へ仇を討ちたいと届けると、
役人は豊前で龍之進を捕縛しますが、
竜之進はこれまでと思ったのか、
役人の隙を見て自害してしまいました。
仕方なく役人は龍之進の首を持って帰り、
登波に対面させています。
自らの手で仇は討てませんでしたが、
間接的に仇を打つこととなり、
事件発生後20年余りになる敵討ちに、
ピリオドが打たれることとなりました。

この一件を当時の大津代官周布政之助が、
登波の心意気を天晴れであると賞賛し、
石碑にしたいと考えました。
そこで周布は碑文の作成を吉田松陰に依頼。
※碑文は周布の立場で書かれており、
 現代のゴーストライターみたいなもの。

忙しいから代わりに書いてと頼んだのか?
お前の方がナイスな文を書けるからと、
代わりに書いてと頼んだのか?
松陰の方から書かせてくれと頼んだのか?
どちらも碑文は松陰の作によるものです。
残念ながら周布は代官職を免ぜられ、
石碑の建立は立ち消えとなりました。

その後の松陰は登波に会いに行ったとされ、
その碑文を野山獄に入る際にも持っていき、
牢内の囚人に紹介したり、
松下村塾で塾生にも語って聞かせています。

この一件は長らく忘れ去られていましたが、
大正5年、桂弥一の進言に従って、
地元の名士中山太一の寄付により、
滝部八幡宮境内に建碑されました。

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