岩出山伊達家は仙台藩伊達家の一門で、
伊達政宗の四男伊達宗泰を家祖とします。
政宗は豊臣秀吉により大崎へ減転封され、
岩出山城を居城としていましたが、
後に青葉城(仙台城)を築城して居城を移し、
岩出山城は幼い四男宗泰に与えられて、
以後は廃藩まで10代続きました。
「岩出山伊達家の霊廟」入口。
岩出山伊達家の墓所は市街の南側にあり、
蛭沢川を渡った坂の途中の山麓にあります。
まずは道路向かいの松窓寺へ。
「松窓寺」。
初代宗泰の傅役山岡志摩の菩提寺で、
岩出山伊達家の供養や、
墓所の管理を行っています。
山岡は江戸に定府する宗泰に代わり、
城代として岩出山城を管理していました。
境内には志摩の墓もあります。
入口から真っ直ぐ一直線の参道。
雪で膝下半分まで埋まりながら進みます。
「参河守従五位下伊達宗泰墓」。
登った先にある初代宗泰の墓。
僅か1歳で岩出山城を与えられますが、
もちろん政務は行えませんので、
山岡と安積重遠が傅役に任じられます。
元服後は江戸に定府して幕府に務めますが、
これは直参取立を狙ったもので、
政宗も新恩拝領の懇請を再三行いましたが、
岩出山に一時帰国後に江戸に向かう途中、
疱瘡を患って急死してしまい、
直参大名取立は叶いませんでした。
宗泰の墓より少し下りた西側に、
2代以降の当主の墓が並んでいます。
「徳雲院殿功巌慧勲大居士」。
2代当主伊達宗敏の墓。
初代宗泰の長男として生まれ、
宗泰の死去後に当主となりますが、
宗泰の死で大名昇格は無くなり、
2代以降は正式に一門家となります。
3代藩主伊達綱宗は酒乱であった為、
藩主不適格として重臣一同が、
幕府に綱宗の隠居願を提出。
この隠居願の署名筆頭が宗敏だったという。
また一関藩伊達家が改易処分となった際、
藩主の側室2人と子4人を預かっています。
隠居後の居館は後に学問所有備館となり、
日本最古の学問所建築物となりました。
「慈雲院殿俊厳義英大居士(左)」、
「安養院殿興興獄嘉盛大姉(右)」。
3代当主伊達敏親と夫人毛里の墓。
敏親は2代宗敏の長男として生まれ、
冷泉為清の娘毛里を正室に迎えています。
宗敏の隠居に伴って家督を相続。
藩士子弟を教育する為に有備館を開設し、
その校舎に前藩主の隠居所をあてました。
4~7代の写真はボケて使えません。
とりあえず簡単な説明を。
4代伊達村泰は涌谷伊達家からの養子。
養父の3代敏親は母方の叔父にあたり、
その隠居により家督を相続します。
22年の在任の後に死去。
5代伊達村緝は4代村泰の長男に生まれ、
父の死去により家督を相続しますが、
僅か5年で死去しました。
6代伊達村通は5代村緝の長男で、
父の死去によって家督を相続。
47年の長期在任の後に死去しています。
7代伊達村則も6代村通の長男。
川渡温泉に休息所を建設しました。
「顕徳院殿隆巖清純大居士(右)」、
「松翠院殿操嶽貞節大姉(左)」。
8代当主伊達宗秩と夫人の墓。
庄内藩転封を目論む川越藩藩主松平斉典は、
大御所の前将軍徳川家斉に取り入り、
三方領地替えを画策しましたが、
これを聞いた庄内領民は集団で藩境を越え、
仙台藩に国替え阻止を愁訴しようとし、
岩出山の領地を通過しようとしますが、
宗秩は庄内領民に論じて解散させました。
仙台藩もこれを受けて幕府に伺書を提出。
最終的に転封は中止となっています。
9代伊達義監と夫人の墓。
墓石が浸食して碑銘が読めません。
8代宗秩の死により家督を継ぎますが、
同年に急死してしまいました。
「贈正五位 故従六位伊達邦直君之碑」。
幕末の当主10代伊達邦直の墓碑。
戊辰戦争で尿前の関の警備を担当。
その後、新庄、秋田方面に出陣しています。
戦後は知行1万4千石を65石に減らされ、
家臣らは帰農を余儀なくされましたが、
邦直は新政府に北海道開拓を志願。
しかし割当地は開拓の見込みが無く、
開拓長官東久世通禧に開拓地移転を嘆願し、
これが当別と決まり移住が開始されました。
以後は当別の開拓が行われ、
現在の当別町の基礎が築かれたという。
邦直は明治24年に死去。
当別神社に祭神として祀られています。
これらの縁から旧岩出山町と別当町は、
友好親善を深めて姉妹都市となっており、
岩出山町が大崎市に新設合併してからも、
姉妹都市として交流があるようです。
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