鶴岡市で生まれた長谷川信夫は、
「南洲翁遺訓」に出会って感銘を受け、
西郷隆盛の「敬天愛人」の言葉に因み、
酒田市に「敬天堂」と称した古書店を開業。
この敬天堂に有志が集まって、
「荘内南洲会」が発足しています。
長谷川は鹿児島南洲神社から分霊を得て、
昭和51年に酒田市に南洲神社を創建。
生涯「南洲翁遺訓」を広めることに努め、
平成8年に死去しています。
「南洲神社」。
飯盛山南麓に鎮座する酒田市の南洲神社は、
西郷(南洲翁)と菅実秀(臥牛翁)を祀る神社。
菅は戉辰の戦後処理を担当し黒田了介と交渉。
黒田より寛大な処分が西郷の指示を知り、
後に鹿児島に赴いて西郷に教えを乞います。
しかし私淑する西郷は西南戦争で敗死。
後に西郷の名誉が回復されると、
その遺訓を纏めて南洲翁遺訓を編集させました。
「敬天愛人」碑。
境内にある敬天愛人の碑。
西郷が好んで用いた言葉として知られます。
この言葉の初出は清の康煕帝とされますが、
沖永良部島に「敬天愛人 発祥の地」もあり、
その言葉自体は発想に足るものなので、
康煕帝とは関係なく西郷が生んだ言葉かも?
また当時一般的に知られる言葉だったかも?
まあ初出がどうであろうと、
西郷を現わすに相応しい言葉であることには、
全く変わりはないと思います。
「徳の交わり像」。
西郷と菅が対話している様子を表現した座像。
明治8年に菅が鹿児島の西郷屋敷に赴き、
親睦を深めた事を記念して製作されたもの。
ちなみに庄内藩が江戸市中警護を担当した際、
強盗、放火、強姦を行う不貞浪士の黒幕が、
西郷であるとして暗殺部隊が結成され、
その指揮を菅が担当したという。
ただこの話の出所がよくわかりませんし、
この説を紹介するネットの文面には、
西郷隆盛暗殺挺身隊という?な言葉が使われ、
その信憑性が問われます。
もちろん過去に暗殺しようとしたからといって、
菅が西郷を敬愛していなかった証拠にはならず、
そういう例は幕末だけでも沢山ありますね。
※例:勝海舟と坂本龍馬、
高杉晋作と野村靖など。
「社殿」。
伊勢神宮式年遷宮の払い下げ用材を使用。
前側の拝殿には南洲翁や臥牛翁の説明の他、
西南戦争で戦死した伴兼之、榊原政治の説明も、
掲示されています。
「南洲翁遺訓」碑と「三行書」碑。
三行書は何と書いてるのかわかりませんでした。
南洲神社はこの酒田と本社である鹿児島の他、
宮崎県の都城市、沖永良部島にもあります。
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