「本間様には及びもないが
せめてなりたや殿様に」
庄内でそんな俗謡が歌われていたという。
本間家は佐渡の豪族の支流で、
元禄期に本間原光が新潟屋を開店。
古着、染物、金物などの雑貨を販売し、
儲けた金で田地を買う事を繰り返します。
3代本間光丘の頃に大きな財を成し、
天明の飢饉では金穀を解放して施しを行い、
庄内藩5代酒井忠寄に賞されたとされ、
7代酒井忠徳の頃には財政改革にも携わり、
大いに成果を挙げたという。
本間家は代々庄内藩に米や金を献上し、
藩の危機にも早急に対応するなど、
何度も庄内藩の危機を救っています。
「本間家旧本邸」。
庄内藩に幕府の巡見使一行が来訪する際、
その宿舎として建設して藩に献上。
恙なく巡見使一行を見送った後に、
改めて藩より拝領し、以後は本邸宅となり、
昭和20年まで本間家が住んでいたという。
写真は長屋門で2千石の格式のもの。
拝観料800円。
「主屋」。
桟瓦葺平屋書院造の主屋。
巡見使を迎える為に随所に趣向が凝らされ、
表玄関の上り口にある式台には、
神代杉が使われています。
玄関前の赤松は樹齢400年以上。
門かぶりの松と名付けられていました。
残念ながら内部の撮影はNG。
一通り見学して外に出る。
「薬医門」。
屋敷東側の藥医門と漆喰の白壁。
平時に家族が利用していたようです。
道路を挟んだ南側の別館へ。
「本間家旧本邸別館「お店」」。
本間家が代々商いを行った場所。
先ほどの本邸が住居でこちらがお店ですね。
館内には実際に使用された帳場や度量衡、
行灯等の照明具、台所用品、看板、
消火道具などが展示されている他、
お土産も売っています。
6代本間光美の頃に幕末の動乱期を迎え、
11代酒井忠発の御隠殿建設に1万両、
江戸市中警護の軍資金に1万両を献上。
更に分割して2万両を献上したという。
もちろん戊辰戦争での最新式装備の購入は、
本間家の力があって成し得たもの。
しかし力及ばず庄内藩は敗北。
厳しい処分が下るかと覚悟しますが、
大蔵卿であった大隈重信に呼び出され、
新政府への5万両の献金で許されます。
酒井家が磐城平へ転封の処分となると、
藩士や領民の転封阻止運動が起こり、
70万両の献納で許される事となりました。
本間家にとっても膨大な金額でしたが、
士分で9万両弱、領民で10万両弱、
酒井家も宝物を売り払って10万両強、
本間家も5万両を都合して35万両を献納。
これ以上の献納は不可能と判断されて、
残りは免除されて転封は中止されています。
その後も酒田の大地主として、
商売や地元貢献を行っていますが、
GHQの農地改革で田地が売られ、
残った田地は僅か4ヘクタールのみでした。
その後は多くの事業で失敗していますが、
元来の不動産部門で生き残り、
今も酒田市で不動産業を営んでいるという。
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・山形県鶴岡市 鶴ヶ岡城跡
庄内藩酒井家の居城跡。
・山形県酒田市 出羽松山城跡
出羽松山藩も援助を受けています。