山形県酒田市 出羽松山城跡

松山城という城は全国に多くあり、
この名を冠した城を藩庁とした藩も多い。
幕末には3つの松山城が藩庁となっており、
そのうちの備中松山城伊予松山城が、
現存の天守を残しています。

今回訪問したのはもう一つの松山城で、
区別の為に出羽松山城と呼ばれていますが、
この松山城だけ天守が残っていません。
※もちろん天守が残っている方が稀。
出羽松山藩庄内藩2代酒井忠当が、
酒井忠恒に2万石を分与されて立藩。
飽海郡中山村に中山陣屋を設置し、
後に地名が松山に改められました。
3代酒井忠休若年寄に昇格し、
5千石の加増で城主大名に格上げされ、
松山城は6年の歳月を掛けて完成。
しかし堀や櫓の一部は未完成で、
そのまま造られることはありませんでした。


松山歴史公園」。
現在の出羽松山城跡は、
松山歴史公園として整備されています。
訪問時は雪が積もっていました。
馬出し土塁も残っているようですが、
膝まで積もった雪でよくわかりません。
ここは大手門前の馬出しのあった場所。

この馬出し跡には2つの碑があります。

愛山頌徳碑」。
明治期の地元の政治家斎藤元経の頌徳碑。
嘉永5年生まれで戊辰戦争時は20歳頃。
松山の豪商斎藤弥右衛門の子ですので、
戊辰戦争に出征はしていないでしょう。
町会議員大地主議員などに選出された他、
松嶺町助役として町政などに貢献した人物。


贈従五位川俣君碑銘」。
勤皇志士川俣茂七郎の顕彰碑。
侍医川俣玄璞の三男として生まれ、
江戸藩邸から脱藩して赤城山挙兵を図り、
失敗して長州藩邸に匿われました。
元治元年には天狗党の乱に参加しましたが、
敗れて幕軍に追われて自刃しています。
この碑は大正15年に建立されたもの。


松山城大手門」。
出羽松山城唯一の現存建築物にして、
山形県内唯一の現存城郭建造物。
天明2年(1782)に完成した後、
寛政2年(1790)の落雷で焼失しました。
この門はその2年後に、
本間家の寄進で再建されたもの。
※本間家は日本一の大地主。
かなり大きくて立派な門で、
流石は本間家寄進といったところでしょう。

この門の先に松山文化伝承館があり、
玄関先の胸像を気付いてはいましたが、
市長か何かの胸像だと思ってスルー。
後で調べてみると、
幕末の家老松森胤保の胸像でした。
他に松山藩350年記念碑もあったらしい。
雪に埋もれてたのかな?


松山城本丸御殿跡」。
雪で埋もれていますが芝生広場でしょう。
奥の建物が松山文化伝承館です。
このあたりに本丸御殿がありました。

宗家の庄内藩は会津藩と共に朝敵となり、
新政府軍の征討を受ける事になります。
支藩の出羽松山藩も宗家と行動を共にし、
奥羽越列藩同盟を脱退した久保田藩を攻撃。
久保田城下まで約10kmの長浜まで迫り、
新政府軍と激戦を繰り広げますが撤退。
続々と投入される援軍に押し返されます。
後に出羽松山藩は庄内藩と共に降伏。
2千5百石の厳封処分となり、
維新後は藩名を松嶺藩と改称しています。

出羽松山藩松嶺藩
藩庁:出羽松山城
藩主家:忠恒流酒井左衛門尉家
分類:2万5千石、譜代大名(庄内藩支藩)

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