山形県鶴岡市 敬天愛人碑

戊辰戦争を最後まで戦い、
薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり、
庄内藩では厳しい処分を予想しますが、
予想外に寛大な処置が施されました。
この処置は西郷隆盛の指示であると伝わると、
庄内藩内で西郷の名声が高まります。

明治3年に前藩主酒井忠篤は、
長澤惟和犬塚盛巍を薩摩に派遣。
2人は藩知事島津忠義と西郷に書簡を提出し、
同年に忠篤と藩士70余名が鹿児島に留学。
約4ヶ月間西郷らに学びました。
以後も庄内と鹿児島の交流は続きますが、
西郷は西南戦争を起こして敗死しています。

後に西郷の名誉が回復されると、
上野に西郷の銅像が建てられる事となり、
忠篤も発起人のひとりとして名を連ね、
また生前西郷から教わった事柄を集め、
遺訓集を編纂する事となりました。
元庄内藩士三矢藤太郎がこれを担当し、
明治23年に南州翁遺訓として発行。
敬天愛人」はこの南州翁遺訓中に登場し、
西郷の言葉として知られます。


敬天愛人」碑と「西郷南洲翁像」。
昭和63年に建てられた敬天愛人の碑と、
令和元年に建てられた西郷のレリーフ像

この敬天愛人という言葉は、
西郷の言葉が初出ではありません。
清の康煕帝がキリスト教会に、
敬天愛人の扁額を与えた記録があり、
また明治3年に洋学者中村正直が、
サミュエル・スマイルズ著の自助論を、
西国立志編として邦訳した際に、
敬天愛人の言葉を用いました。
西郷による敬天愛人の書も残っていますが、
上記より後の話になります。

ただ天を敬い人を愛すという言葉は、
それほど難しいものではありませんので、
一般的に知られている言葉だったのかも?
当時の勤皇思想にも合致しますし、
西郷が好んで使用したのも頷けます。

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