三重県津市 寒松院/津藩藤堂家墓所②

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つづき。


長空院殿智風高達権大僧都」。
6代藩主藤堂高治の墓。
巨大な歴代藩主の墓に比べ、
なんとも小さな筒状の墓石です。
※その理由はよくわかりません。
藩祖藤堂高虎の弟藤堂高清の孫で、
一門藤堂出雲家3代藤堂高明の子。
久居藩3代藩主藤堂高陳の養嫡子となり、
僅か13歳で久居藩藩主となってましたが、
津藩5代藤堂高敏が嗣子なく死去した為、
18歳で宗家の家督を相続しました。
地震で荒廃した領内の復興に努めますが、
26歳の若さで病死しています。


孝譲院殿経山高綸権大僧都」。
7代藩主藤堂高朗の墓。
藤堂出雲家4代藤堂高武の子で、
久居藩4代高治が宗家を継いだ為に、
代わって久居藩5代藩主となりましたが、
高治の死去により高朗も宗家を継ぎました。
奢侈を好んだ他に幕府普請にも参加し、
藩は多くの借財を抱える事となっています。
※高朗は隠居後の名で、
 藩主在任時の名は藤堂高豊



到岸院殿円真高徳権大僧都」。
8代藩主藤堂高悠の墓。
7代高朗の四男として生まれますが、
高朗は6代高治の子藤堂高般を養嫡子とし、
高悠を高般の養子として定めていましたが、
高般が早逝した為に嫡孫となり、
高朗の隠居によって家督を相続。
勤皇に厚い人物だったようで、
率先して仙洞御所普請役を務め、
財政難に拍車をかけています。


祐信院清峻高節権大僧都」。
9代藩主藤堂高嶷の墓。
7代高朗の長男でしたが、
叔父の久居藩6代藤堂高雅の養嫡子となり、
7代久居藩主となっていました。
しかし宗家を継いだ弟高悠が死去した為、
急遽宗家の家督を相続。
継続的に続く財政難を打開しようと、
数々の財政改革を打ち出していますが、
どれも失敗しています。


誠徳院松巌高秀権大僧都」。
10代藩主藤堂高兌の墓。
9代高嶷の次男として生まれ、
久居藩11代藤堂高矗の養子となり、
家督を相続して12代藩主となりました。
しかし兄の藤堂高崧が家督を辞退し、
高崧の子藤堂高巽も早世した為、
宗家の家督を相続する事になります。
高嶷の改革の失敗を考慮し、
常に綿服を着て質素倹約に努め、
灌漑用水の整備や産業育成を推進し、
法令の整備や行政機構の改善を行った他、
藩校有造館も創設。
これらの改革が功を奏したようで、
藩財政は好転して領民の暮らしも改善され、
領民は高兌を大いに慕ったという。
高兌が病に伏した際には、
領民による高兌の御命乞が自主的に行われ、
神仏に願掛けをしたと伝えられますが、
その甲斐なく44歳で死去しました。

11代藤堂高猷、12代藤堂高潔の墓は、
染井霊園にありここにはありません。
高猷の時代に幕末に突入。
津藩は伊勢神宮の警備や京都守衛を行い、
軍制の洋式化も行っています。
天誅組の変にも兵を派遣しており、
佐幕寄りの行動を取っていましたが、
鳥羽伏見の戦い橋本を守備する藩兵は、
旧幕軍を砲撃して新政府軍の勝利に貢献。
これが藩祖が主君を変えた事に比喩され、
津藩及び藩祖藤堂高虎悪評となりました。

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