①/②
つづき。
「長空院殿智風高達権大僧都」。
6代藩主藤堂高治の墓。
巨大な歴代藩主の墓に比べ、
なんとも小さな筒状の墓石です。
※その理由はよくわかりません。
藩祖藤堂高虎の弟藤堂高清の孫で、
一門藤堂出雲家3代藤堂高明の子。
久居藩3代藩主藤堂高陳の養嫡子となり、
僅か13歳で久居藩藩主となってましたが、
津藩5代藤堂高敏が嗣子なく死去した為、
18歳で宗家の家督を相続しました。
地震で荒廃した領内の復興に努めますが、
26歳の若さで病死しています。
「孝譲院殿経山高綸権大僧都」。
7代藩主藤堂高朗の墓。
藤堂出雲家4代藤堂高武の子で、
久居藩4代高治が宗家を継いだ為に、
代わって久居藩5代藩主となりましたが、
高治の死去により高朗も宗家を継ぎました。
奢侈を好んだ他に幕府普請にも参加し、
藩は多くの借財を抱える事となっています。
※高朗は隠居後の名で、
藩主在任時の名は藤堂高豊。
「到岸院殿円真高徳権大僧都」。
8代藩主藤堂高悠の墓。
7代高朗の四男として生まれますが、
高朗は6代高治の子藤堂高般を養嫡子とし、
高悠を高般の養子として定めていましたが、
高般が早逝した為に嫡孫となり、
高朗の隠居によって家督を相続。
勤皇に厚い人物だったようで、
率先して仙洞御所普請役を務め、
財政難に拍車をかけています。
「祐信院清峻高節権大僧都」。
9代藩主藤堂高嶷の墓。
7代高朗の長男でしたが、
叔父の久居藩6代藤堂高雅の養嫡子となり、
7代久居藩主となっていました。
しかし宗家を継いだ弟高悠が死去した為、
急遽宗家の家督を相続。
継続的に続く財政難を打開しようと、
数々の財政改革を打ち出していますが、
どれも失敗しています。
「誠徳院松巌高秀権大僧都」。
10代藩主藤堂高兌の墓。
9代高嶷の次男として生まれ、
久居藩11代藤堂高矗の養子となり、
家督を相続して12代藩主となりました。
しかし兄の藤堂高崧が家督を辞退し、
高崧の子藤堂高巽も早世した為、
宗家の家督を相続する事になります。
高嶷の改革の失敗を考慮し、
常に綿服を着て質素倹約に努め、
灌漑用水の整備や産業育成を推進し、
法令の整備や行政機構の改善を行った他、
藩校有造館も創設。
これらの改革が功を奏したようで、
藩財政は好転して領民の暮らしも改善され、
領民は高兌を大いに慕ったという。
高兌が病に伏した際には、
領民による高兌の御命乞が自主的に行われ、
神仏に願掛けをしたと伝えられますが、
その甲斐なく44歳で死去しました。
11代藤堂高猷、12代藤堂高潔の墓は、
染井霊園にありここにはありません。
高猷の時代に幕末に突入。
津藩は伊勢神宮の警備や京都守衛を行い、
軍制の洋式化も行っています。
天誅組の変にも兵を派遣しており、
佐幕寄りの行動を取っていましたが、
鳥羽伏見の戦いで橋本を守備する藩兵は、
旧幕軍を砲撃して新政府軍の勝利に貢献。
これが藩祖が主君を変えた事に比喩され、
津藩及び藩祖藤堂高虎の悪評となりました。
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■関連記事■
・三重県津市 津城跡
津藩藤堂家の居城跡。
・三重県津市 久居陣屋跡
支藩久居藩藤堂家の陣屋跡。