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津藩の初代藩主藤堂高虎は、
浅井長政の足軽から身を立てますが、
長政は織田信長に滅ぼされました。
浅井家滅亡後は浅井旧臣に仕え、
信長の甥織田信澄にも仕えていますが、
功績を挙げても加増されなかった為、
いづれも出奔しており、
浪人となってその日食べるものにも、
困るような生活をしていたという。
後に豊臣秀長に仕えて重宝される事となり、
賤ヶ岳の戦いなど数々の戦いで功を挙げ、
また築城に才能を発揮させており、
数々の名城を築城させました。
主を多く変えて変節漢と称されますが、
秀長以降は自ら主君を変えてはおらず、
秀長、豊臣秀保、そして豊臣秀吉と、
主君が死去するまで忠誠を尽くしています。
秀吉の死後は親交のあった徳川家康に与し、
関ケ原の戦いに東軍として参加。
軍功によって20万石を得るに至りました。
その後22万石で伊賀、伊勢に加増転封。
津藩を立藩してその後も加増され、
最終的に32万余石となっています。
以後は江戸時代を通じて津藩藤堂家は続き、
廃藩置県までに12代続きました。
藤堂家の菩提寺は寒松院。
2代藩主藤堂高次が創建した昌泉院を、
高虎が葬られた事により寒松院と改称させ、
藩主の菩提寺として定め、
以後は歴代藩所の墓所となっています。
「本堂」。
かつての寒松院は藩に庇護されて隆盛し、
多くの堂宇が建てられていましたが、
空襲によって全ての建物焼失してしまい、
現在はこの本堂が移築されているのみです。
※この本堂はどこから移築されたのか、
調べてもよくわかりませんでした。
「藤堂家墓所」。
街中に巨大な五輪塔が並んでいるのに驚き。
初代から10代の藩主の墓とその家族、
久居藩の2、3代を除く藩主の墓があり、
その壮大さに圧倒されました。
往時は壁などで囲まれていたと思われます。
「寒松院殿道賢高山権大僧都」。
初代藩主藤堂高虎の墓。
高虎は出奔して浪人となっていた際、
三河吉田宿の餅屋で無銭飲食しますが、
店主は高虎を憐れむと共に、
自分の妻と同じ近江出身であると聞き、
「これ以上東へは行かず、
西の故郷に帰って親孝行するように」
と諭して路銀まで与えました。
その後高虎が参勤交代で吉田宿に立ち寄り、
路銀を与えられた餅屋を訪れて、
「忠告通り西へ向かったら、
良い主にめぐり合って武運が開けた」
と店主に大金を与えて、
家臣らに餅を振舞ったとされます。
高虎は白い餅三つ(三つ餅)を旗指物とし、
しろもち(城持)となる事を願ったとされ、
既に城持ちとなっていた関ケ原の戦いでも、
[三つ餅]を掲げて参戦しました。
このように苦労人であった故か、
家臣らへの人情に厚かったとされており、
自分の死後に殉死する事を厳禁とし、
家康に願って殉死厳禁の上意を賜わり、
家臣を一人も殉死させませんでした。
※始め70人が殉死を願い出たという。
確かに大藩の藩祖の墓の周辺には、
殉死した家臣の墓がつきものですが、
高虎の墓の周りにはそれが皆無です。
「大通院殿智堂高勝権大僧都」。
2代藩主藤堂高次の墓。
高虎にはなかなか実子が授からず、
丹羽長秀の子藤堂高吉を養嗣子とますが、
慶長6年(1602)に高次が生まれた為に、
高次を継嗣として高吉を廃嫡しました。
※高吉は豊臣秀長の養嫡子でしたが、
秀吉が甥豊臣秀保を秀長の跡継ぎとし、
これを不憫に思った高虎が、
跡継ぎに高吉を貰い受けていました。
※廃嫡後に高吉は一門筆頭となり、
名張藤堂家の祖となっています。
高虎の死後に家督を相続。
江戸城の復興や徳川家光の霊廟など、
数多くの石垣普請を行っています。
しかしこの為に藩財政が悪化し、
新田開発や年貢増収も行いましたが、
財政難は改善される事はありませんでした。
「了義院殿実観高顕大僧都」。
3代藩主藤堂高久の墓。
2代高次の長男に生まれ、
高次の隠居に伴い家督を相続しました。
悪化した藩財政再建の為に綱紀粛正に努め、
新田開発や水利事業を行っています。
また大名取り潰しの多かった時期の為、
お家存続の為に幕閣への接近を試み、
大老酒井忠清の娘亀姫を正室とし、
将軍徳川綱吉に寵愛された柳沢吉保に接近。
綱吉の学問講義にも盛んに出席するなど、
なりふり構わず媚を売っていたという。
領民からは仏のように慕われていたようで、
名君と称されていました。
「大亨院殿独山高慎権大僧都」。
4代藩主藤堂高睦の墓。
3代高久は子に恵まれず、
末弟の高睦を養嫡子としており、
高睦は高久の死去に伴って家督を継ぎます。
治世では元禄地震や宝永地震、
富士山噴火などの天災に見舞われ、
大きな被害に遭っており、
この事態を打開する為に藩政改革を行い、
臣下の制度を改めています。
「大輪院殿智月高映権大僧都」。
5代藩主藤堂高敏の墓。
高睦の子は全て早逝してしまっていた為、
支藩の久居藩より高敏が養嫡子に迎えられ、
高睦の死去により家督を継いています。
宝永地震の後遺症で領内に凶作が続き、
藩財政は悪化し続けました。
高敏はなんとか再建を目指そうとしますが、
その半ばで疱瘡に倒れて死去してしまい、
高敏には子もいなかった為に、
藩祖高虎の血統は途絶えました。
つづく。
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・三重県津市 津城跡
津藩藤堂家の居城跡。
・愛媛県今治市 今治城
藤堂高虎によって築城された城。
・愛媛県宇和島市 宇和島城
こちらも高虎によって築城された城。