三重県津市 寒松院/津藩藤堂家墓所①

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津藩の初代藩主藤堂高虎は、
浅井長政の足軽から身を立てますが、
長政は織田信長に滅ぼされました。
浅井家滅亡後は浅井旧臣に仕え、
信長の甥織田信澄にも仕えていますが、
功績を挙げても加増されなかった為、
いづれも出奔しており、
浪人となってその日食べるものにも、
困るような生活をしていたという。

後に豊臣秀長に仕えて重宝される事となり、
賤ヶ岳の戦いなど数々の戦いで功を挙げ、
また築城に才能を発揮させており、
数々の名城を築城させました。
主を多く変えて変節漢と称されますが、
秀長以降は自ら主君を変えてはおらず、
秀長、豊臣秀保、そして豊臣秀吉と、
主君が死去するまで忠誠を尽くしています。

秀吉の死後は親交のあった徳川家康に与し、
関ケ原の戦い東軍として参加。
軍功によって20万石を得るに至りました。
その後22万石で伊賀伊勢に加増転封。
津藩を立藩してその後も加増され、
最終的に32万余石となっています。
以後は江戸時代を通じて津藩藤堂家は続き、
廃藩置県までに12代続きました。

藤堂家の菩提寺は寒松院
2代藩主藤堂高次が創建した昌泉院を、
高虎が葬られた事により寒松院と改称させ、
藩主の菩提寺として定め、
以後は歴代藩所の墓所となっています。


本堂」。
かつての寒松院は藩に庇護されて隆盛し、
多くの堂宇が建てられていましたが、
空襲によって全ての建物焼失してしまい、
現在はこの本堂が移築されているのみです。
※この本堂はどこから移築されたのか、
 調べてもよくわかりませんでした。



藤堂家墓所」。
街中に巨大な五輪塔が並んでいるのに驚き。
初代から10代の藩主の墓とその家族、
久居藩の2、3代を除く藩主の墓があり、
その壮大さに圧倒されました。
往時は壁などで囲まれていたと思われます。


寒松院殿道賢高山権大僧都」。
初代藩主藤堂高虎の墓。
高虎は出奔して浪人となっていた際、
三河吉田宿の餅屋で無銭飲食しますが、
店主は高虎を憐れむと共に、
自分の妻と同じ近江出身であると聞き、
これ以上東へは行かず、
 西の故郷に帰って親孝行するように

と諭して路銀まで与えました。
その後高虎が参勤交代で吉田宿に立ち寄り、
路銀を与えられた餅屋を訪れて、
忠告通り西へ向かったら、
 良い主にめぐり合って武運が開けた

と店主に大金を与えて、
家臣らに餅を振舞ったとされます。
高虎は白い餅三つ(三つ餅)を旗指物とし、
しろもち(城持)となる事を願ったとされ、
既に城持ちとなっていた関ケ原の戦いでも、
三つ餅」を掲げて参戦しました。
このように苦労人であった故か、
家臣らへの人情に厚かったとされており、
自分の死後に殉死する事を厳禁とし、
家康に願って殉死厳禁の上意を賜わり、
家臣を一人も殉死させませんでした。
※始め70人が殉死を願い出たという。
確かに大藩の藩祖の墓の周辺には、
殉死した家臣の墓がつきものですが、
高虎の墓の周りにはそれが皆無です。


大通院殿智堂高勝権大僧都」。
2代藩主藤堂高次の墓。
高虎にはなかなか実子が授からず、
丹羽長秀の子藤堂高吉を養嗣子とますが、
慶長6年(1602)に高次が生まれた為に、
高次を継嗣として高吉を廃嫡しました。
※高吉は豊臣秀長の養嫡子でしたが、
 秀吉が甥豊臣秀保を秀長の跡継ぎとし、
 これを不憫に思った高虎が、
 跡継ぎに高吉を貰い受けていました。

※廃嫡後に高吉は一門筆頭となり、
 名張藤堂家の祖となっています。

高虎の死後に家督を相続。
江戸城の復興や徳川家光の霊廟など、
数多くの石垣普請を行っています。
しかしこの為に藩財政が悪化し、
新田開発や年貢増収も行いましたが、
財政難は改善される事はありませんでした。


了義院殿実観高顕大僧都」。
3代藩主藤堂高久の墓。
2代高次の長男に生まれ、
高次の隠居に伴い家督を相続しました。
悪化した藩財政再建の為に綱紀粛正に努め、
新田開発や水利事業を行っています。
また大名取り潰しの多かった時期の為、
お家存続の為に幕閣への接近を試み、
大老酒井忠清の娘亀姫を正室とし、
将軍徳川綱吉に寵愛された柳沢吉保に接近。
綱吉の学問講義にも盛んに出席するなど、
なりふり構わず媚を売っていたという。
領民からは仏のように慕われていたようで、
名君と称されていました。


大亨院殿独山高慎権大僧都」。
4代藩主藤堂高睦の墓。
3代高久は子に恵まれず、
末弟の高睦を養嫡子としており、
高睦は高久の死去に伴って家督を継ぎます。
治世では元禄地震宝永地震
富士山噴火などの天災に見舞われ、
大きな被害に遭っており、
この事態を打開する為に藩政改革を行い、
臣下の制度を改めています。


大輪院殿智月高映権大僧都」。
5代藩主藤堂高敏の墓。
高睦の子は全て早逝してしまっていた為、
支藩の久居藩より高敏が養嫡子に迎えられ、
高睦の死去により家督を継いています。
宝永地震の後遺症で領内に凶作が続き、
藩財政は悪化し続けました。
高敏はなんとか再建を目指そうとしますが、
その半ばで疱瘡に倒れて死去してしまい、
高敏には子もいなかった為に、
藩祖高虎の血統は途絶えました。

つづく。
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