愛媛県今治市 今治城

今治城藤堂高虎によって築城された平城で、
海水を利用した三重の堀を持っており、
海城」にも分類されています。
現在は内堀を残して埋め立てられていますが、
堀を覗くと海に生息するサヨリ等が泳いでおり、
現在も海水が流れ込んでいる事がわかります。


今治城跡」碑。
現在は本丸が吹揚公園として整備されており、
模擬天守等が建てられています。


大手口」。
今治城中心部に入る大手口。
重厚感があって雰囲気はとても良い。


御金櫓」。
昭和60年に再建された御金櫓
名称から察するに金庫であったのでしょう。
古写真を元に外観復元をされたもの。


武具櫓」。
昭和55年に再建された北側の隅櫓。
今治城が明治2年に廃城になった際にも、
この武具櫓は残されていたようですが、
明治4年に火災が起こって内部の火薬に引火し、
爆発炎上してしまったという。


鉄御門」。
平成19年に復元された鉄御門
石垣や多聞櫓5棟も併せて復元されており、
大手門に相応しい外観に仕上がっています。


藤堂高虎公」像。
鉄御門と共に建立された藤堂高虎の騎馬像。
高虎は今治城の築城主で築城の名手とされ、
この今治城の他、宇和島城篠山城津城
上野城膳所城二条城等、
全国に散らばる名城を数多く築城しました。
また主君(主家)が7回も変わっている為、
変節漢であるという悪評もありますが、
明確な裏切りで主君を替えたわけではなく、
主家の滅亡や待遇の悪さからの暇乞いの交代で、
戦国時代当時の事情によるものたったようです。
しかしながら後裔である津藩藤堂家が、
鳥羽伏見の戦い旧幕軍を真っ先に裏切った為、
藩祖高虎の7回の主君変わりを皮肉られ、
結果的に高虎の評判を落とす結果になりました。
実際は徳川家康秀忠の信任は厚かったようで、
徳川家の外様先鋒を任されています。


天守」。
五層六階の立派な天守ですが、
明確な資料に基づかない模擬天守。
今治城には天守台の遺構が存在せず、
天守は無かったのではないかともされますが、
文献には天守の存在が点在しており、
伊賀上野城や丹波亀山城に移築されたともいう。
この模擬天守は亀山城をモデルとして建てられ、
大入母屋破風張り出し出窓等が付けられ、
かなり装飾された天守となっています。

吹揚公園内には石碑や銅像がありますが、
幕末に関係無いものですので割愛。

吹揚神社」。
廃城後の明治5年に今治城跡に鎮座する神社。
今治市内各所にあった神明宮蔵敷八幡宮
厳島神社夷宮の4社を合祀したもの。
後に高虎と久松松平家松平定房も、
合祀されています。


山里櫓」。
平成2年に復元された西側の隅櫓。
搦手側の守りを担当する二層二階櫓です。


搦手側より天守を望む。
史実と異なる部分が数多い今治城ですが、
なかなか城としての見ごたえはあり、
個人的には岸和田城に似てるかなと思う。
この吹揚公園内より外の外郭には、
侍町が形成されていたようで、
山側には櫓は建てられていませんが、
海側には6棟も二層櫓が並べられていました。
これは海上からの威容を重視したもので、
海からは相当巨大な城のように見えたのでは?
現在の今治城は小さなスペースに櫓が復元され、
城の雰囲気がとてもよく表現されています。
ここが違うあそこが違うと目頭立てずに、
素直に楽しむべきだと感じました。

藤堂高虎は津藩22万石に加増転封となり、
後に久松松平家の松平定房が入封し、
廃藩まで定房流久松松平家が統治しました。
海辺の領地の特性を生かして塩田開発を行い、
塩を特産品とした他、白木綿の生産を奨励。
これらを藩の貴重な徴収としています。

幕末の藩主10代松平定法は国防に関心が強く、
軍備を洋式化して軍制改革に努め、
今治海岸に砲台を築くなどしています。
また自ら上洛して周旋を行い公武合体に尽力。
長州征伐にも藩兵を派遣していますが、
宗家伊予松山藩が積極的に参加したのに対し、
今治藩兵は積極的に戦闘していません。
鳥羽伏見の戦い旧幕府軍が敗れると、
勤皇を明らかにする為に京都に出兵。
宗家伊予松山藩の恭順を周旋し、
寛大な処置を新政府に懇願しています。

今治藩
藩庁:今治城
藩主家:定房流久松松平家
分類:3万5000石、譜代大名

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