勘場跡の宇部市船木ふれあいセンターの隣に、
宇部市北部総合支所がありますが、
ここにはかつて全国で3番目に古く、
県下で初の女学校が建てられていました。
「宇部市北部総合支所」。
藩政時代は長谷川家の邸宅があったそうで、
そこの長屋を船木女児小学として開校。
後に女学校は移転した為、
跡地には楠町舎が建てられています。
※楠町は平成の大合併によって宇部市に編入。
町舎は支所となっています。
「徳基学舎遺址」。
明治維新後は女性教育が重要性であると、
船木区長兼重慎一が同志を募り、
毛利勅子を校長に迎えて船木女児小学を設立。
明治6年に7人の女子児童から始まります。
発起人の兼重は元長州藩大組士で、
村田清風、山田亦介、大村益次郎等に接し、
藩政時代は行政家として藩に尽くし、
当時は船木区長となっていました。
毛利勅子は徳山藩8代毛利就寿の七女で、
最後の長州藩主毛利元徳、徳山藩9代毛利元蕃、
禁門の変の責で自刃した福原越後、
館林藩初代秋元志朝等の蒼々たる面々が兄弟。
勅子自身も書道、和歌、連歌、琴、馬術、
薙刀術等に秀でた才女であったようです。
勅子は私財を投じてこの女学校を盛り上げ、
熱心な指導に女子児童も年々増えていった為、
新校舎の建設が計画されますが、
勅子はその完成を待たずに死去。
新築された女学校は勅子の遺徳を偲び、
徳基学舎に改称されました。
これは勅子(ときこ)から取られたものという。
後に徳基女学校に名称を改められ、
明治42年に厚狭に移転して、
徳基高等女学校として県立となった後、
厚狭高等女学校を経て厚狭中学校と統合。
現在は県立厚狭高等学校となっています。
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