参勤交代制度があった事や、
隠居後も江戸で生活を送っていた為、
中津藩の藩主の殆どは江戸で死去。
遺骸は品川区の清光院に葬られ、
国許に墓は建てられませんでしたが、
7代藩主奥平昌猷は唯一領内で死亡し、
葬儀が行われて自性寺に葬られました。
自性寺は歴代の菩提寺で臨済宗の寺院。
藩祖奥平信昌が新城に封じられていた頃、
万松寺として創建したもので、
奥平家の転封に従って数回移転した後、
初代(奥平家5代)奥平昌成が中津に転封し、
同様に移転して自性寺と改称しています。
「本堂」。
山門の前には軽自動車が停まっており、
撮影を諦めていたのですが、
後で調べるといつも停まっている様子。
本堂の創建年はよくわかりませんが、
火災等の記録もないようなので、
創建時のものと思われます。
「織部灯籠」。
境内に置かれたキリシタン燈籠。
中津藩細川家の時代に、
藩主細川忠興が建立した長福寺のもので、
これが移築されたものと伝えられており、
妻ガラシャの菩提を弔う為のものという。
本堂左脇の奥平家墓所へ。
「奥平家墓所」。
上記したように7代昌猷の墓以外、
藩主の墓はありませんが、
初代昌成、3代奥平昌鹿、
5代奥平昌高の子供達の墓が建っています。
ハシゴが立て掛けられていたのが残念。
「潜龍院殿大淵道珍大居士」。
中津藩7代藩主奥平昌猷の墓。
5代昌高の五男として生まれ。
兄の6代奥平昌暢が24歳で死去した為、
末期養子となって家督を相続しました。
黒沢庄右衛門を財政改革にあたらせ、
銀札所改革、専売強化、家中半知令を実施。
積極的な藩政改革を進めましたが、
僅か9年で病死してしまっています。
唯一領内で死去した藩主であり、
中津で盛大な葬儀が厳粛に行われたという。
墓を囲む玉垣は中津町人らの寄進とのこと。
家督は兄の子奥平昌暢が相続し、
時代は幕末の動乱へと向かいました。
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