豊前四日市は東西本願寺別院が隣接し、
門前町として栄えた場所で、
日向街道の宿場町、天領陣屋町でもあり、
非常に賑やかであったという。
四日市周辺。緑の線が日向街道で、
青でぼかした辺りが門前宿場町。
江戸時代中期に真勝寺騒動が起こり、
東本願寺末寺の真勝寺とその門徒が、
西本願寺に転派する事態が発生。
乱闘騒ぎが起きるなど混乱し、
東本願寺側が幕府に訴える事となり、
これを寺社奉行であった大岡忠相が裁き、
真勝寺は公儀没収の上で東本願寺に戻され、
東本願寺の別院となります。
一方で西本願寺は真勝寺騒動後、
新たな別院の設立を幕府に懇請しますが、
寺院の新設は禁じられていた為、
川部村にあった正明寺を四日市に移転し、
本堂を改築して別院とします。
そうして東西別院が隣接する事となりました。
「四日市宿跡」。
街道筋にあたる本町通り。
浄土真宗の両派大寺院が隣接した為、
四日市は門前町として隆盛。
宿場も大変に賑やかであったという。
現在は当時の家屋は殆ど皆無ながら、
当時の雰囲気を出した建物が建てられ、
現在も門前町の雰囲気は残されています。
「島田虎之助直親 立寄之地」碑。
天保三剣士のひとり島田虎之助は、
天保5年に撃剣修行で九州を巡り、
その最終地として四日市を訪れており、
宇佐八幡宮で武運長久を祈願し、
東西本願寺別院や善光寺に参詣しました。
その後で中津に里帰りした後、
江戸に向かって出発していますが、
下関で道場を開くなどしており、
江戸に到着したのは天保9年だったという。
「西本願寺四日市別院」。
真勝寺騒動後に新たに創設された西派別院。
現在の本堂は安政6年に再建されたもので、
火災等で失われては再建されたという。
「東本願寺四日市別院」。
真勝寺10世宗順は本山に隠居を命じられ、
これを不服として西本願寺へ改派しますが、
東本願寺の僧侶らが大挙して押し入り、
境内で乱闘騒ぎとなってしまい、
騒動は幕府が介入する事態に発展。
両派の僧侶らが八丈島へ流罪となり、
関係者が入牢となり獄死しています。
その後に真勝寺は東本願寺に下げ渡され、
本山掛所御坊となりました。
この本堂は幕末の御許山騒動で、
佐田秀率いる花山院隊に放火されて焼失。
現在の本堂は明治13年に再建されたもの。
街道筋には古い家屋は残っていないものの、
脇道に古い家屋が残っています。
「横町通り」。
本町通りと蛭子通りを結ぶ路地で、
江戸町風の石畳と町屋が並んでいます。
奥に見える大きな屋根は東別院。
蛭子通りを西に行って県道44号線を越え、
最後に大乗院へ向かいます。
この大乗院というお寺には、
鬼のミイラが安置されているという事で、
108段の急な石段を上りました。
「大乗院」。
残念ながら鬼のミイラは撮影禁止ですが
この建物の中に安置されていました。
身長2mで三本指の女性の鬼との事で、
ある名家の家宝として伝わっていたものが、
故あって手放される事となり、
この大乗院の檀家が5千500円で購入。
※現在の価格で5千万円以上。
その檀家は原因不明の病で倒れてしまい、
これを鬼のミイラの祟りと考えて、
大乗院にミイラの安置を依頼すると、
その檀家の病はみるみる回復したという。
現在は仏様として祀られています。
■日向街道の宿場町
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