九州の幕府天領16万2000石は、
西国筋郡代によって治められていました。
幕領にはそれぞれ代官が置かれますが、
関東、美濃、飛騨、西国筋は、
他の天領と違い大規模であった為、
代官より身分の高い郡代が置かれます。
郡代は郡レベル石高を支配する代官の事で、
特定の郡を支配したわけではありません。
その職務は代官と同様に司法と行政を担い、
内容はそれ程変わりませんでした。
但し福岡藩、熊本藩、佐賀藩、薩摩藩と、
土地柄的に外様大藩が揃っており、
その動静を監視する必要もありました。
これを長崎奉行と協力して行う為、
重要な役回りであったようです。
「豆田町の街並み」。
日田陣屋の城下町である豆田町は、
江戸時代の商家や土蔵が多く残り、
古い町並みがよく保存されています。
御幸通りと上町通りで構成され、
御用商人の店が軒を連ねていました。
「花月川」。
町と陣屋を分ける花月川は筑後川の支流で、
堀の役目をすると共に水運を担いました。
「永山布政所跡(日田陣屋跡)」。
花月川の北側が陣屋のあった場所。
永山布政所の名称で説明がされていますが、
そう呼ばれていたという文献は無いようで、
日田御役所、日田代官所、日田陣屋など、
複数の名称で呼ばれていました。
この付近に大規模な陣屋がありましたが、
現在は完全に住宅街になっており、
陣屋の遺構らしきものは皆無。
結構古い家屋も建っているのですが、
全てが明治以降のもののようです。
日田陣屋跡の北側の月隈山には、
永山城跡があります。
「永山城水堀」。
月熊山を一周していた堀は、
南側のみ残されています。
堀の石垣は明治期のものとの事。
永山城は江戸時代前期に廃城されますが、
日田代官所が麓に築かれた後、
どうなったのかよくわかりませんが、
たぶん櫓などが取り壊された後、
放置されていたと思われます。
山頂の本丸および月隈神社の参道は閉鎖中。
平成28年の熊本地震で石垣が崩壊し、
現在も未だ立ち入り禁止となっており、
麓の三ノ丸広場のみ入れます。
「廣瀬淡窓詩碑」。
三ノ丸跡にある廣瀬淡窓の詩碑。
明窓浄几ヲ兼ヌ
膝を抱イテ悠ナル哉
人間ノ事ヲ話ス莫レ
青山座ニ入リテ来タル
訳:明るい窓清らかな机のある書斎で、
膝を抱いて座って思う
俗世の事など忘れよう
青い山の陰が入って来ている
淡窓は豆田町の御用商博多屋の長男で、
稼業を継がずに教育者の道を進み、
日本最大級の私塾咸宜園を開いた人物。
咸宜園は身分を問わずに入学ができ、
全国から約4800人が集まって学びました。
塾生には高野長英、大村益次郎、上野彦馬、
長三洲、岡研介、清浦奎吾などがいます。
「陰徳倉碑」。
西国筋郡代塩谷大四郎は郡代着任後、
陣屋東南の畑地に四棟の倉を建てて、
飢饉や災害に備えて救い米を備蓄し、
毎年新穀を倉から入れ替え、
その倉を陰徳倉と名付けています。
実際に文政5年の大火の際には、
救い米が放出された様で、
塩谷が称えられました。
三ノ丸跡より本丸虎口石垣を望む。
未だ地震の爪痕は各所にあるようです。
新しい災害のニュースが入って来ると、
過去の災害は忘れてしまいがちですが、
各地の史跡を訪問していると、
未だ復興中だと思い出させてくれます。
最後の西国筋郡代は窪田鎮勝で、
新撰組の前身浪士組の取締役を務めた人物。
柔術の達人だったようで、
京都見廻組の今井信郎も彼の弟子でした。
神奈川奉行所の定番役頭取取締を経て、
西国筋郡代に就任すると、
農兵による[制勝隊]を組織しています。
佐田秀らが起こした御許山騒動で、
四日市代官所が襲われますが、
※記事はこちら。
出張してきた長府報国隊によって鎮静。
この騒動ほどなく窪田は江戸に帰還し、
日田陣屋は新政府統治下に置かれ、
森藩、岡藩が取締りを命じられました。
そして日田陣屋は日田県役所となり、
初代県知事には松方正義が入っています。
日田では大楽騒動や竹槍騒動が勃発し、
県政が悪化していますが、
明治4年に大分県に統合されました。
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