長門峡から流れ込む阿武川が、
橋本川と松本川の二つの川に分れて、
その三角州が萩の城下町なのですが、
その両川が分かれてすぐの川島という地域。
ここに城下へ流れる水路があります。
「藍場川」と呼ばれる用水路で、
農業用水をはじめ防火用水、
川舟による物資の運搬や、
水害時の水はけに利用されていました。
鯉が泳ぎ、野菜などの洗い場や、
武家屋敷と道を結ぶ石橋が、
風情のある印象的な場所です。
「旧湯川家屋敷長屋門」。
その藍場川の最も上流に位置するのが、
現存する旧湯川家の屋敷跡。
川沿いで唯一完全な形で残る武家屋敷で、
湯川家は水門管理をする樋番という役を、
代々拝命していたようです。
この屋敷の一番の特徴で、
面白いのは藍場川の水の使い方。
川の上流から庭に水を引き込み、
庭の池(川)を作っています。
池(川)の水は建物の下を通り、
そのまま台所へ向かいます。
そこで水を汲んだり、
野菜や茶碗などを洗ったり、
生活用の炊事場となっていたようです。
ここを「ハトバ」というそうで、
水は再び藍場川に流れ出ていました。
お風呂場にも小さなハトバがあり、
お風呂に水を溜めたり、
水を足したりしていたようです。
ハトバを外から見たところ。
夏にはウナギが来ることもあるという。
20mほど下流に下ると桂太郎の旧宅。
桂太郎は11、13、15代総理大臣で、
藩政時代は馬廻役125石の上士。
世子毛利元徳の小姓役にもなっています。
幕長戦争では志願して石州戦争を戦い、
戊辰戦争でも奥羽鎮撫総督参謀添役や、
第二大隊司令として各地を転戦しました。
明治期には「ニコポン宰相」と呼ばれ、
政治家や財界人を手懐けるのが、
巧みだったとされています。
3歳から維新後に東京に移り住むまで、
ここに住んでいたようですが、
現在の建物は内閣辞職後に、
建て直されたものだそうです。
屋敷は総辞職後に建て直したただけあって、
楽隠居の屋敷といった風情です。
「公爵桂太郎誕生地」、
「桂太郎公」像。
庭には石碑と銅像があります。
桂は3歳から移り住んでいますので、
誕生地というのは間違いです。
実際は平安古という場所で生まれました。
この銅像は何かを読んでおり、
正面からは顔が見えない風変わりなもの。
この桂太郎旧宅にもハトバがあります。
こちらは建物の中ではなく、
台所を出てすぐのところにありますが、
当時は建屋があったのかも?
藍場川沿いには現在も居住するお宅もあり、
外から見てハトバがあると思われる家も、
普通に沢山ありました。
僕がもし将来金持ちになったなら、
この川沿いの空き地を買って、
ハトバ付きの別荘を建てたいですね。
まあ、無理か・・。
■関連記事■
・山口県光市 伊藤博文記念公園
伊藤博文の生家が復元されています。
・萩市 高杉晋作誕生地
高杉晋作の生家。
・萩市 元帥公爵山県有朋誕生地碑
山縣有朋の誕生地。