福岡県朝倉市 西福寺跡

明治9年10月24日。
熊本神風連の乱が勃発し、
不平士族約400名が熊本城等を襲撃。
知事鎮台司令長官を死傷させます。
秋月党宮崎伊六宮崎車之助及び、
蒲池作之進の3名もこれに参加。
緒戦の勝利後に秋月へ戻り、
同志らに熊本での勝利を報告します。
これを聞いた秋月党もこれに続けと、
挙兵に向けて準備を開始。
しかし続報で鎮圧の知らせを受けると、
党内で急進派慎重派で議論が分かれ、
決起は自重する事となりました。
あくまで決起を主張する益田静方ら急進派は、
旧藩主黒田長元の側室今村直子の養子で、
宮崎車之助の弟今村百八郎を擁立。
益田は佐賀の同志に決起を即す為、
今村に後事を託して佐賀へ。
急進派は益田を待つ事なく決起を主張し、
今村も抑える事ができずに挙兵を決断します。
10月26日未明に招集をかけると、
旧藩士達が続々と田中天満宮に終結。
続々と旧藩士らが集まってくると、
移動して本陣西福寺に定めました。
これと同時に慎重派らも秋月小学校に集まり、
善後策を協議しますが結論に至らず解散。
翌10月27日午前10時。
急進派は西福寺を出陣して豊津を目指します。


西福寺跡」。
秋月党急進派が本陣とした西福寺跡
元和年間(1615-1624)創建の浄土宗寺院で、
長門国出身の僧が草庵を結んでいたものが、
次第に寺院となったものとのこと。
後の昭和41年に廃寺となっており、
跡地は大涼寺の墓地となっています。
廃寺の理由はわかりませんが、
乱から30年以上経っていますので、
別の理由だと思われます。

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 小倉鎮台と交戦して戦死した秋月党の墓。
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