長府藩は全国に先駆けて和砂糖を製造し、
大坂に販売したとされますが、
現在はそんな形跡は微塵も感じられません。
長府藩の砂糖製造は江戸中期頃、
永富独嘯庵により伝えられました。
独嘯庵は医者ながら殖産興業に関心があり、
藩に進言して白砂糖製造を許され、
安岡浦、横野、綾羅木、王司等、
長府領内各所でサトウキビを栽培。
こうして収穫されたサトウキビが、
安岡浦の大庄屋内田家で製糖され、
※内田家は独嘯庵の実家でもあった。
見事な和砂糖となったという。
長府藩はこの製糖された和砂糖1万斤を、
大坂の菓子屋等に販売しますが、
これに砂糖製造を研究していた幕府は、
技術者を派遣して製造法を乞うと共に、
大量の砂糖生産を密貿易と疑っており、
目付の派遣も行いました。
宝暦6年(1756)9月から約7ヶ月、
幕使一行は滞在しており、
※製糖を習う岡田丈助と池永軍八の他、
目付役の御陸目付組頭伴勘七郎、
御陸目付田口八郎右衛門、
御小人目付持田只七及び瀧又四郎。
他に宗家小納戸役上野市右衛門が同行。
実際にサトウキビの栽培状況や、
生産現場を視察したようです。
幕使一行が製糖を伝授された後、
製糖技術は全国に広まったようで、
和砂糖は藩の特産品となることは、
なかったようです。
その後もサトウキビ栽培は続けられますが、
現在はその形跡はありません。
大量に売らずに疑われないよう少量売れば、
幕府にバレずに製造法も伝授せず、
砂糖市場を独占出来たかもしれません。
これが幕末期に大きな資金となったかも?
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長府藩領の港町。
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砂糖製造をもたらした医者。
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横野で島田虎之助は道場を開きました。