長府侍町2丁目路地角の小さな碑。
そこにかつて長府藩の藩校敬業館があり、
一時集童場も置かれていた場所でした。
「敬業館及集童場址」碑。
宗家長州藩の藩校である明倫館は、
5代藩主毛利吉元が創設したもので、
藩内の人材育成を目的としていますが、
この人材育成方針は長州藩だけでなく、
各支藩及び一門家老家にも見られます。
今回の長府藩の敬業館の他にも、
徳山藩の鳴鳳館、清末藩の育英館、
岩国領の養老館、宍戸家の徳修館、
右田毛利家の時観園、吉敷毛利家の憲章館、
阿川毛利家の時習館、厚狭毛利家の朝陽館、
大野毛利家の弘道館、益田家の育英館、
福原家の菁莪堂などが創建されており、
郷校数では全国一であったという。
長府藩校敬業館の創設は、
10代藩主毛利国芳によるもので、
国芳はその創建同年に死去していますが、
次代の11代毛利元義がその意思を継ぎ、
藩校の充実をはかっています。
初代学頭は儒者小田享叔を迎え、
藩士子弟を幼年から教育。
15歳までに四書五経の素読を終わらせ、
武芸でも免許を得るように努めさせました。
天保2年(1831)には聖廟も建てられ、
次第に文教制度は充実発展していますが、
これが藩の姿勢にも表れたようで、
学門を解せず武芸も成し得ざる者は、
嫡子であっても廃嫡。
次男以下も養子に行ってはならないと、
厳しいものであったとのこと。
攘夷戦の影響で御殿が勝山に移転すると、
敬業館は長府陣屋跡に移転。
その際に学問場は講文堂となり、
武術場は練武場と改称されました。
この跡地には集童場が設置され、
士庶区別なく15歳以下の子が集められ、
優れた人物を育成を目指しましたが、
慶応2年に敬業館が再移転して、
ここにあった集童場を併合。
これらは廃藩置県を経て、
豊浦小学校や豊浦高校へと変わっています。
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旧明倫小学校は明倫館の跡地。
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集童場の初代場長。