山口県周南市 大野直輔墓所

兒玉家の墓所へ行く道すがらにある、
広く取られた大野家の墓所。
初めて兒玉家墓所を訪れた人は、
これが兒玉源太郎の墓かと勘違いする程、
立派な墓碑が建てられています。


大野家墓所」。
徳山藩士あった大野家の墓所ですが、
江戸期の当主の墓は見当たりません。
大野家は野島村上家の家老家の分家で、
徳山藩に仕官して続いた家系でした。


従三位勲三等大野直輔後妻常子墓(右)」、
錦鶏間祗候正三位勲三等大野直輔墓(右2)」、
従三位大野直輔妻多美子墓(左2)」、
正六位理學博士大野直枝夫婦之墓(左)」。
直輔後妻常子大野直輔
直輔前妻多美子、長男大野直枝の墓。
大野直輔は徳山藩士大野篤直の子で、
徳山藩校興譲館や長州藩校明倫館に学び、
慶応元年には山崎隊の総監に就任し、
幕長戦争で隊を率いて戦いました。
鳥羽伏見の戦いでは詔勅を持ち、
津藩への折衝にあたって勝利に貢献。
旧幕軍大坂城を放棄した後は、
その接収の任についています。
明治元年には世子毛利元功の従者として、
英国に渡り経済学を学んでおり、
明治5年に岩倉使節団に合流。
海関税及び港内諸規則の調査に従事しました。
帰国後は租税寮出仕を経て造幣寮に出仕
大蔵権大書記官
造幣局長議案局理事
預金局長銀行局長会計検査院部長
文官普通試験委員長等を歴任し、
大正10年に死去しています。
大野直枝は直輔の長男で、
帝国理科大学卒業して植物学者となり、
東北帝国大学農科大学教授を務めますが、
大正2年に父に先立って病死しました。

直輔の次男大野守衛外務省に出仕。
各国で外交官として勤務した後、
神奈川県藤沢市長となっています。

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