日清戦争の英雄兒玉源太郎は、
徳山藩の出身として知られていますが、
その墓所は青山霊園となっており、
後に多磨霊園に改葬されました。
そして故郷の徳山には遺髪が送られ、
兒玉家の墓所に遺髪墓が建立され、
累世墓や兄夫婦の墓と共に並んでいます。
「兒玉家墓所」。
隠居山墓地の南側にある児玉家の墓所。
生垣に囲まれて綺麗に整備されています。
「陸軍大将子爵兒玉源太郎卿遺髪塔」。
兒玉源太郎の遺髪墓。
日露戦争勝利後に兒玉は参謀総長に就任。
南満洲鉄道創立委員長にも就任し、
今後の活躍が期待されていましたが、
明治39年7月23日に脳溢血で急逝しました。
7月28日に青山霊園に埋葬されており、
同年9月8日に遺髪墓が建立されています。
「贈正四位兒玉次郎彦墓
室 久子墓」。
徳山藩士兒玉次郎彦と妻久子の墓。
兒玉源太郎の義兄兒玉次郎彦は、
徳山藩士浅見栄三郎の次男に生まれ、
源太郎の父兒玉児半九郎の婿養子となり、
長女の久子と結婚。
大柄で武技に秀でた偉丈夫で、
和漢の歴史に通じていたとされます。
義父半九郎の死後に家督を継ぎ、
周旋方となって京都で活動。
藩校鳴鳳館の助訓役兼寮長も務め、
後進の子弟を教育しましたが、
禁門の変後に徳山藩も保守派が台頭し、
その頭目富山源次郎の暗殺を謀りますが、
失敗して保守派に暗殺されました。
※この騒動で暗殺、処刑された藩士は、
徳山七士と呼ばれています。
兒玉家は家名断絶処分となりますが、
宗家の正義派政権樹立で家名は再興。
家督は源太郎が継いでいます。
兒玉源太郎を祀る同市の児玉神社には、
次郎彦ら徳山七士の顕彰碑と、
贈従四位の記念碑が建てられています。
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