織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、
大軍を率いて中国地方へ侵攻。
播磨、但馬、因幡を平定した後、
備前、備中にも進出した為、
毛利家は境目七城を防衛線とし、
※宮路山城、冠山城、備中松山城、
加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城。
羽柴勢との戦いに備えました。
約2万で姫路城を出陣した羽柴勢は、
宇喜多秀家の約1万を加え、
約3万の大軍へと膨れ上がり、
境目七城の主力備中高松城を包囲。
城主清水宗治は3〜5000で籠城を開始し、
膠着状態となっています。
低湿地の沼城であった備中高松城は、
鉄砲や騎馬に強い難攻不落の城で、
羽柴勢は攻めあぐねていましたが、
逆転の奇策として水攻めを採用。
城の周囲に堅固な長堤を築き、
足守川の水をそこに流入させて、
備中高松城を水浸しにしました。
毛利輝元はこれを聞いて救援に向かい、
吉川元春、小早川隆景と共に出陣。
羽柴勢と睨み合いが続きますが、
物資の不足から身動きがとれず、
五国割譲と城兵救済を条件に、
※備中、備後、美作、伯耆、出雲の5国。
秀吉に対し和議を提示します。
しかし秀吉は五国割譲と城主切腹を要求し、
その交渉は難航。
宗治の命を助けたい毛利家は、
安国寺恵瓊を小舟で高松城に派遣し、
秀吉への降伏を促しましたが、
忠義に篤い宗治はこれを拒否し、
自らの首を差し出す代わりに、
城兵の命を助けるように嘆願しました。
その頃に本能寺の変が発生し、
急報を伝える間者を羽柴勢が捕縛。
信長の死を知らされた秀吉は、
一刻も早く和睦すべき状態となり、
三国割譲と城主切腹が条件に出されます。
※備中、美作、伯耆の3国。
輝元はこの条件をやむなく受け入れ、
城内の宗治にこれが伝えられました。
宗治は城内の清掃を行い身なりを整え、
秀吉から贈られた酒と肴で宴を行い、
兄の清水宗知、弟の難波宗忠、
援将末近信賀と共に秀吉の本陣に向かい、
舞を踊って辞世をしたためた後、
4人で自刃しています。
秀吉は宗治を武士の鑑として賞賛。
後にその子清水景治を直臣として、
1万石を与えようとしていますが、
景治はこれを辞退して毛利家に残り、
※正確には小早川家。
隆景死去後に毛利家に復帰。
後に寄組士となって続きました。
「清鏡寺」。
宗治の2人の遺児清水宗之と清水景治は、
小早川隆景に仕えており、
その後の九州征伐や朝鮮出兵に従軍。
時期は不明ながら隆景の死後は、
毛利家に復帰したようで、
関ヶ原の戦いでは兄宗之は安濃津城の戦い、
弟景治は大津城の戦いに参戦しますが、
宗之はその戦いで戦死しました。
清水家の家督は弟景治が相続し、
毛利家の減封後は熊野郡内2500石を拝領。
現地にあった吉祥寺を清鏡寺と改称し、
父宗治の菩提寺としました。
「本堂」。
宗治の法名高松院殿清鏡宗心大居士より、
高松山清鏡寺と名付けられています。
寺宝として宗治の乗鞍や、
備中高松城の陣鐘が現存しているとのこと。
「清水宗治供養塔(中央の五輪塔)」。
清水景治により建てられた宗治の供養塔。
並んでいるのは将兵らのものという。
宗治の墓は備中高松城内にあり、
首塚、胴塚に分けられているという。
家祖宗治は東より侵攻する羽柴勢に、
籠城して対抗し忠義を尽くして自刃。
その子孫は寄組士として続きますが、
12代後の子孫清水親知も、
皮肉にも藩の為に賜死を遂げています。
親知の義父で家督を再継した清水親春は、
第二奇兵隊の総督に就任し、
東から侵攻して来た幕府に対して、
攻撃を加えて大島を奪還しました。
清水家は後の世も毛利家を守ったようです。
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清水家10、11(13)代当主の墓所。
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12代清水親知の招魂墓があります。
・岡山県岡山市 備中高松城跡/清水宗治首塚
備中高松城跡と清水宗治の首塚。