14代仲哀天皇は日本武尊の子で、
伯父である13代成務天皇の養子となり、
先帝崩御の2年後に即位しました。
即位2年後に気長足姫(神功皇后)を娶り、
後に熊襲討伐の為に皇后と豊浦に行宮。
熊襲を討つ為に筑紫に赴いた際に、
神懸りした皇后から託宣を受けますが、
これを聞かずに熊襲と戦って敗走。
即位9年で崩御しています。
遺体は武内宿禰により豊浦宮に戻され、
殯殮された後に浪華に運ばれて、
恵我長野西陵に葬られました。
この仲哀天皇の殯殮地が日頼寺にあります。
「仲哀天皇殯殮地入口」。
日頼寺の山門を通って右側が入口。
宮内庁管轄地お馴染みの立札があります。
石段を少し登ると門が現れます。
「仲哀天皇殯殮地門」。
他の御陵等と同様に入る事は出来ません。
「仲哀天皇殯殮地」。
門から見た仲哀天皇の殯殮地。
神功皇后の神懸りで仲哀天皇は琴を弾き、
建内宿禰が下記の神託を受けます。
「熊襲の痩せた国を攻めても意味はなく、
海を渡れば宝の国(新羅)を得るだろう」。
しかし天皇はこの言葉を疑って、
琴を弾くのをやめてしまいました。
これに神は激怒して天皇に死を宣告。
建内宿禰は琴を弾き続ける事を奏上し、
天皇も渋々これに従いましたが、
そのうちに琴は聞こえなくなって、
そのまま天皇は崩御したという。
殯殮はしめやかに行われたとも、
大祓が大々的に行われたともされます。
その後に神功皇后は神託に従い、
海を渡り新羅に攻め込んで服従させ、
百済、高麗をも従属させました。
皇后は天皇の遺児誉田別尊を出産し、
皇太子にしてその摂政となり、
69年間これを務めた後に崩御。
これに伴い誉田別尊が応神天皇となり、
後世で八幡神として祀られています。
■関連記事■
・下関市長府 忌宮神社
境内は仲哀天皇の行宮跡地。
・下関市阿弥陀寺町 赤間神宮
下関市にある安徳天皇の御陵。